~ゾクゾクするような充実感~     黄金を抱いて翔べ [読書&映画]

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 これ、大阪の北浜で撮影しているね。

後ろにはわたくし愛する紅茶専門店「北浜レトロ」(屋根がペーミント・グリーンのビル)が映ってます。

映画、「黄金を抱いて翔べ」を見に行ってきました。

どっちかというといつもは洋画よりのわたくしなんですが、

たまにみると、邦画もいいよね、って思う。

邦画には邦画にしか感じられない渋さがあります。

コレなんて見ていながら、あまりにリアルなんで

手に汗握って見てました。実に傑作。

洋画は、っていうか、例えばトム・クルーズの作品や007なんかは

たしかにアクションシーンもすごい迫力なんだけど、痛みが伝わってこないのね。

だいたいにして、トムやダニエル・クレイグってすごく体格立派。

どんなに高いところからジャンプしようが、肉弾を食らおうがヘッチャラって感じがするし・・・。

っていうか、そもそも初めから観客に「痛み」を伝えようという目論見はないんだと思う。

いってみれば、演じているスターの超人的側面を強調しているように思える。

だけど、この作品は見ているものに「痛み」がダイレクトに伝わってくるんです。

妻夫木くんたち、我ら同輩は西洋人に比べればずっと体は華奢な作りしているしね。

こっちは、等身大っていうかリアルに現実社会を生きている人間を表現したいのね。

吐く息の熱さとか、そういうの。伝わってくる。

そうすることで、当たり前のことなんだけど、

暴力ってやっぱり怖いんだ、痛いんだ、っていうか・・・・。

金属の金具なんかで力いっぱい殴られたら、

血も出るし、骨も折れる。内出血もして青あざもできる。

そんな普通の人間だったら当然感じる痛み、ね。

もしかしたら、その血を流している人は隣の家の人かもしれないっていう距離感。

ひいては、それは遠い地で行われているんじゃない、もしかしたら自分も感じるかもしれない痛み。

うん、そこらへんはたけしの映画のような痛さがあるかも・・・。

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さて・・・・。

あらすじをひとことでいってしまうと銀行強盗の話なわけですよ。

銀行の地下三階に眠っている金塊、時価にして240億円を奪うというもの。

そういってしまうと身も蓋もないってカンジだけど

この映画はね、目的がどうというよりも、

そこに至るまでの動機がものすごく大事なんですよ。

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こういう金塊をグループで計画して実行する、っていうと

ぱっと思いつく限りでは、ほら「ルパン三世」とか「オーシャンズ11」みたいなもの

ふっと思い出すと思うんだけど、

この映画はね、あんなふうに洒落ていて洗練されているわけじゃない。

計画する犯人たちは、もう市井では全く顧みられることさえないような

男たちばっかり。

ホームレスのような、やくざくずれのような・・・そんな社会の底辺に生きているような人々。

1990年に原作が発表されているけど、すでに下流社会というものを

作者はキチンととらえているよね。

定職もなく、教育もなく、家族もなく、温かい家庭の味すら知らず・・・・・。

野良犬のように育った男たち。

普段なら絶対に脚光も浴びることもなく、遠景としてグレーに染まってしまうようなそんな人たち。

だけど、そういう男たちは、野良犬がゆえの鋭い本能っていうか直感があるんだね。

でも、そんな街角に埋もれているようなゴミや枯葉みたいな存在が、

ある日何かのきっかけで魂が宿ってムクムクっと大きくなり、

不気味な人間の形をとって世間の前に姿を現すんですね。

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この犯人たちは全部で六人。

みんな過去に犯罪歴とか、自傷癖があったり、いろいろとスネに疵もつ御仁ばかり。

普段は、フリーターかトラックの運ちゃんとか、うだつの上がらないような仕事についているけど、

実は・・・・っていうウラの顔があるんだよね。

なんか犯罪の場所を大阪に持ってきたのがいいと思うんだよね。

実際、大阪ってそういう胡乱な場所や雰囲気があるから。

京都にずっと住んでいますが、京都にはない不鮮明さ、っていうのが

大阪にはあるように思うのね。

で、ま、いろんな特殊能力があるのね。

コンピューターのハッカーができたり、機械に詳しかったり、鍵を開けられたりとか・・・

でも、実行するにはどうしても「爆弾」作れる能力のいるヤツがいる、ってことで

もと北朝鮮の工作員をまんまと引き込むことが出来たんだけど・・・。

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はっきりいって、この人たち、ある程度プロなんだけど、でもね、

作戦は練りに練ったってわけでもなく、結構ずさんなんです。

で、この人ら、徹頭徹尾、他人が信じられない人たちで、

チームワークってものを知らない。

すぐに自分の利益になると思えば、仲間を裏切って密告したりするしね。

そこがまた、この映画の迫力あるところだわね。

結局、こいつらをつなぐものは「恐怖」っていうか、「血の糊」のみ、なんですよねぇ・・・・フゥ

だから、ほとんどの男たちはカネほしさにやるわけじゃない。 

それに実行に移す段階ではすでに大けがをしていて、

それしたら「死ぬやろ?」みたいな状態なんです。

家族が殺されたりして、大きな犠牲も払っているし・・・・。

本人たちもそれは解っていて、ヤバイな、とは思ってるんだけど

(ヤバイどころの話ではないんだけど)

だからこそ、強行突破する。

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そこには、世の中の底辺にむりやり押し込められた人間たちの不条理に満ちた社会に対する

復讐みたいなものも感じられるし、

また、毎日毎日、感情のない機械のようなルーティンワークを強いられて、感情がマヒした日常から

ドキドキワクワクというヴィヴィッドな感情が蘇る非日常への、自己回帰みたいなものも感じられる。

なにかゾクゾクしたことをして「生きていることを感じてみたい」ってことだと思う。

それが、悪いことであろうが、良いことであろうが、この人たちには関係ないのね。

大切なものや人、場所すらなくした心の喪失感、体に負ったずきずきするような痛みでさえ、

この人たちにとっては「生きたことの証」になるわけ。

本来なら忌まわしい行為である犯罪そのものが、この人たちにとっては「人生の祝祭」となりえる。

なにか、そこらへんのキモチが痛いほどこちらに伝わってきて切ないほどだった。

もう、終わったときはすごいカタルシス覚えて、うち帰って寝ました 爆


バベルの塔 [ワタシのキモチ]

ああ、今日はちょっとお酒を飲んでいい気持ち。

バーガンディのワインなんですけど、色がね、本当にきれいなの。

説明には、「ルビー色」と書いてありましたけど、違うね、

それはね、ガーネット色なんですよ。

いやだなぁ、ルビーはたしかに高価な宝石には違いないけど、

それは、希少かそうじゃないかっていうだけの違いでしょ?

美しいかそうじゃないかっていうのと、また話は別。

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さて、皆さま、バベルの塔の話を知ってます?

知ってらっしゃるかたのほうが多いと思うけど、

一応念のため。

これはね、旧約聖書の物語なんですよ。

あるとき、人間はかぎりなく高い塔を作ろうと思い立ったんです。

天まで届くような。

天まで届けば、人間だとて、神のような力を得ることができるかもしれないと。

しかし、神はそんな人間の増長慢な心をすばやく察知した。

そして、一致団結させないように、しゃべる言語をバラバラにして

人間と人間の意思を通じないようにした・・・

その結果、バベルの塔の建設は頓挫したのだとか・・・・・・。

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最近、こういう本を読みました。

「ラテン語の世界」

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産 (中公新書)

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産 (中公新書)

  • 作者: 小林 標
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 新書


まえまえから不思議だ、不思議だと思っていたことがあって、

なんでアッピウスって人が作ったのに、「アッピウス街道」じゃなくて「アッピア街道」になるんだろうって。

みなさんもあの有名な「テルマエ・ロマエ」の名前を聞いてなんとなく違和感を感じませんでした?

なんで「ローマ」じゃなくて「ロマエ」なんだろう?って。

それは、はっきりと言えないけど、ラテン語って名詞も語尾が変化するみたいよ。

まぁ、英語も単数複数ってあるけど・・・・。そんなんじゃなくてもっと難しい。

そして、定冠詞もなければ、語順もないのだそうな・・・・。

だから、「ローマのお風呂」という意味のテルマエ・ロマエってたぶん複数形なのね。

お風呂と言う意味のテルマエだって単数だったら「テルメ」だと思うの・・・。(間違っていたらゴメン)

とにかくラテン語はすごく難しい・・・・・。しかし、それだけに話されることがなくなっても、

現在今日にいたるまで学術語として、生き延びることができた言葉なのかもしれません。

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ちょっとここでこぼれ話をひとつ―

みなさま、river と rival の関係って知ってます?

どっちもラテン語起源だそうです。

なぜ「川」が「敵」となるのか?

それはネ、「水争い」から来ているんです。

うへぇ~。いきなり日本の水飲み百姓の姿を思い浮かべるんですけど・・・・・。

結局、畑に水がいく、いかない、っていうのは死活問題なので、

水に関係した相手は「ライヴァル」となる・・・・とこういう図式だそうです。

・・・・・ふ~ん、イタリアも農耕民族ダッタンダナ・・・・と。

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あ~、よっぱらってるなぁ、と自覚しつつ、文の乱れは平にご容赦を・・・・汗

で、何を言いたいかっていうと、

この間新聞を読んでいますと、日本語はその昔、朝鮮語の源流であった言葉が

いつの時代かに分かれて、今に至っているということがわかった、と書いてあったことです。

さらに、その記事を読めば現在の「琉球語」というか「沖縄弁」は日本語なのか、そうじゃないのか、

ということですが、

関係性をいえば、沖縄のコトバはやっぱり日本語ではなく、「琉球語」なのだそうです。

ま、たとえていうなら、イタリア語とスペイン語ぐらいの距離だそうで。

琉球語も日本語がある時代から分化して今日に至っているそうです。

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そうやって源流を求めていくと、

今日、インド・ヨーロッパ語と呼ばれる言語は

その昔、サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語は親戚のような関係で、

もとはひとつの言語だった可能性が非常に高いのだと・・・・・。

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つまり、バベルの塔のお話もたんなる作り話じゃない、ってことです。

あ~、なんか起承転結がなっていないなぁ~、と酔っ払いは考えるけど、

これ以上はムリ。

みなさん、しょうがない与太話につきあってくれてアリガトね。


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本来はコチラが芸術の本道    「絶頂美術館 Museum of Ecstasy」 [読書&映画]

さて、少々おもはゆいながら、先日こんな本を読んでみました。

「絶頂美術館」 ミュージアム オブ エクスタシー・・・

タイトルがちょっとドッキリでございますね 笑

絶頂美術館

絶頂美術館

  • 作者: 西岡 文彦
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2008/12/18
  • メディア: 単行本


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さて、わたくしが子供の頃っていうのは、

すくなくとも日本の芸術の潮流の分野に置きましては、

美術でいえば、近代絵画においては印象派一辺倒でございました。

ついでながら、音楽といえば、ベートーヴェンだったように思います。

モーツァルトなんてケーハクなロココ的感覚の作曲家だとして、軽んじられていたような気がするし、

ましてや、わたくしの好きなドビュッシー、ラヴェルなどは完全に差別されていたと思います。

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しかし、あれからン十年、日本も少しは成熟したんでしょうかね?

イヤ、思うに1970年代っていうのは、クールで無機質な演奏が好まれた時代だったんだと思います。

その背景には科学万能崇拝みたいなものもあったというか・・・。

最近はその反動なのか、もっとセンチメンタルでロマンティックなものもいい、という

考え方に修正されているような気がしますね。

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さて、日本は幕末に開国したとき、ちょうどおフランスは印象主義が跋扈する時代だったのでした。

それで黒田清輝みたいな洋画のパイオニアたちはあちらから印象主義というのを

持ち帰ってきたというわけです。

ですので、それまで主流だった新古典主義とかロマン主義とかリアリズムみたいな

ものは持ち帰らなかったような気がしますね。

日本人にはモネのような風景などを描いた絵の方が好ましかったのでしょう。

日本では裸の絵を「芸術」だとして鑑賞するという習慣はありませんでしたから。

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ルネサンス以前は、裸というのはタブーだったのです。

罪です、裸を人前にさらすのは。

しかし、ルネサンスになりますと、ギリシャ哲学が再びよみがえりまして、

ギリシャというのは、完全な肉体というのを非常に尊びますので、

絵画および芸術のほうにもその潮流は押し寄せてくるのです。

たとえば、超有名なボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」とか。

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ルネサンス以前は、キリスト教じゃない異教の女神の裸像を描くなんて

とんでもないことでした。

でも、ここが肝心なところでして、当時でもタダの生々しい裸を描くってことは

御法度だったんですよ。

とにかく「神のように美しい裸形」ということが大事だったんです。

美しい容貌、美しいプロポーション、美しいしぐさ・・・。

こういうのがとっても絵画において大事な要素だったんです。

以前書いたトピの中で、辻邦生のボッティチェリの生涯を描いた「春の祭典」にも詳しいですが、

http://blog.so-net.ne.jp/sadafusa/2012-05-17/trackback

ボッティチェリは、あるときシモネッタ・ヴェスプッチという非常に美しい人と出会う。

最初であったときは、愁いを知らぬ、どちらかといえば生気にあふれた元気溌剌な少女だったのだけれど、

彼女は結婚してのち、初めて人に「恋する」ということを知ったのです。

そういった、不仕合せからくる、愁いの表情をみてボッティチェリは確信するのですよね。

彼の求め続けていた普遍的な女性像、インスピレーションの源は彼女にこそある、ってね。

ですから、このヴィーナスもモデルは当然、シモネッタでございまして、

やはりどこか遠くを見つめて放心したような、一種の甘い疼きみたいなものを

彼女の表情から感じ取ることが出来ます。

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なんか前置きが長くなっちゃったけど、

要するに、印象主義というものが始まる前には、

絵のテーマというのは、なんでもいいわけじゃなかった。

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 ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。裸体もその時代の美意識が反映されています。

これは、それなりにスレンダーながら、後世の新古典主義の絵画などよりもずっと肉感的です。

壮大な歴史の一場面か、キリスト教の物語か、あるいはギリシャ神話などから

テーマをかりてこなけりゃならなかったんですね。

しかし、そうやって16世紀ぐらいからず~っと

そういうのにばっかり固執していると、

どこか、テクニックにばっかり走って、マンネリになっていくんですよ。

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ま、だから実をいえば古典主義っていうのはルネサンス以降、連綿と続いていたわけなのですが、

時期的にはフランス革命の前後に、ヴィンケルマンって人がローマの遺跡を発掘し、

一大ローマブームが起こったわけなのです。

当時の人は、古代のギリシャ人の、ローマ人の作った白亜の大理石の

彫刻を見て、感動するわけですよ、なんて美しいんだ!ってね。

それで、まぁ「新」がついた古典主義が出てきたんです。

新古典主義・・・・。

それから、ダヴィッドとかアングルの絵画を見ればわかるように、

彫刻のような質感をもった体が二次元上に再現されるわけです。

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で、フランス革命ってそのまま、すっと民主制になるわけじゃなくて、

ナポレオンが覇権を掌握して皇帝になったり、廃位されたり、

王政が復活したり、また第二次帝政が復活したりで、

フランスのモラルっていうのも、なんだか以前とは様相を異にしていて、

どことなく、バブリーでスノッブなものになっていく傾向があるんですよ。

・・・・・まぁ、本当の貴族はギロチンで首を斬られて、成金のブルジョアが台頭してくるんですよね。

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そうしますと、やっぱりそういうスノッブな連中のニーズにこたえるような絵が出現してくる・・・

とわたくしはそう考えますね。

で、そのスノッブな絵の代表作がカバネルの「ヴィーナスの誕生」だというわけです。

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 ナポレオン三世が「これこそ芸術だ!」といって絶賛し、

お買い上げになったという有名な逸話つき。

これは発表当時から「アカデミック・ポルノ」だとして有名な絵でした。

これって、徹底したリアリズムで描かれていながら、

絶対に現実ではありえないようなことが絵の中で起こってますね。

波の上に寝そべるヴィーナス。

子供が見ても、「なんかすごい絵だなぁ・・・」と思うと思いますよ、実際。

ま、そういう風に描かれているんですけどね。

要するに、これはヴィーナスというのは体のいい口実であって

実は女性がエクスタシーに達するその瞬間が描かれていると、

見る人がみれば、ばっちりわかっちゃうような絵なのです。

ま、しかし、これはなにもカバネルだけの専売特許というわけでもなく、

この時代、これと似たようなポーズのヴァリエーションというのは、たくさんありました。

実際、この間、見てきた「大エルミタージュ展」でも

ジュール・ルフェーブルっていう人の「洞窟のマグダラのマリア」(1876年)っていうのが

ありましたしね。

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 この絵、なにが「洞窟のマグダラのマリア」なんだか・・・

嗤っちゃいますよね。しっかり指先が反っているのに注目。

彫刻のような滑らかな肌。

肉感的ではなく、まるで大理石のような質感でもって描かれるのが

この時代の好みでした。

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 テクニックは万全ながら、印象が薄いブグローの絵。

おんなじ貝の上に乗ったヴィーナスといえど、こちらは安っぽいセンチメンタリズムしか感じられない。

彼は生前非常にもてはやされたが、死後あっという間に忘れされた一人だ。

カバネルのヴィーナスにはもはや、ボッティチェリの愁いは消え、

薄く目を広げ、上気しているように見える。

それもそのはずですよね。

ごていねいなことに、わたくしは本で指摘されるまで気が付きませんでしたが、

足の親指が反っているのが、エクスタシーに達している証拠なのだとか・・・。

・・・・この時代の男性ってホントウにある意味、オタク的にエロいですね↓

ただし、こういう絵であっても絵画の決まりをキチンと守っていたので、

世の中には立派に芸術だと認められていたのです。

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ただね、本にも書いてありますが

エクスタシーっていう状態っていうのは、

やはり、不思議な感情というか状態であって、

ある意味神秘的な感慨にうたれるもんなんだと思うんですね。

本書を引用いたしますと、

フランス語に「小さな死 petite mort」という言葉があるという。

性的な絶頂感やその後に訪れる深い眠りを指す言葉である。

人間の性愛のあり方について深く思索したことで知られる、現代フランスを代表する

思想家ジョルジュ・バタイユ(あ~、あのわけわかんない「マダム・エドワルダ」の作者かぁ・・・)は、

この「小さな死」を最終的な死そのものの予感としてこそ、

人間は十全に生きられるのではないか、と書いている。

人間が性的な絶頂を感じる際にやってくる、全面的な無防備、

すべてを相手に委ねて投げ出してしまうような感覚は、

おそらく私たちの知っているものの中で一番死に近いのかもしれない。

そうした絶頂感でのみ、人はすべてを自身が掌握し管理していなくてはならない

という重圧を逃れることができる。

全面的な放棄と敗北にも近い感覚で、自らのすべてを相手に委ねるとき、

はじめて私たちは自分がこの宇宙の中で孤立した存在ではないということを実感できるのかもしれない。

とあります。

ん~、なるほど。

しかも、人間ではなく、神との合一による「法悦」とは「ウォルプタス」ともいい、

それは単なる快楽ではなく、美徳であるそうです・・・・。

んんん~、なんか奥が深いなぁ。

たしか密教にもそういうのがあったよね、「男女の交わりで感じる歓喜とは菩薩の境地である」とか?

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多分、この絵をみる男性は、女神とのウォルプタスを感じているんでしょうね。

フェミニズム的な観点で見ると、こういう絵は女性蔑視だ、ということもいえるそうなんだけれど、

わたくし個人に限って言えば、男神のウォルプタス状態ってどういうのをいうの?

はっきりいってそれは絵にならない、と思う。

あるいは「聖セバスチャン」みたいなちょっときわどい絵を見て萌えるのか?

わたくし、まったくBLとか読めない人だからそういうの、わからないな。

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 こういうアポロと美少年みたいなBLのノリみたいなテーマも非常に流行った。

こういうのは、ホントわかんないなぁ~。ヘルマフロディトス的愛なのか・・・・???

ひとつ、可能性をいえば、女性はそのウォルプタスを感じている女神に自己を投影しているんです。

だから、相手は当然、自分がココロの中で思い描く美しい男神でしょうね、もちろん。

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だけど、こういう小技を効かせた細部にばっかり注意を払っている絵っていうのは

衰退していくものです。

のちのクリムトの「ダナエ」に見られる、生命力にあふれるこのすさまじい迫力には

さすがのカバネルも影が薄く見えてしまいますねぇ~。

後世畏るべし、なのですよ☆

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これをパダンゲ(ナポレオン三世)がみたら、なんというか、
聞いてみたかったようなきもする。

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