本来はコチラが芸術の本道    「絶頂美術館 Museum of Ecstasy」 [読書&映画]

さて、少々おもはゆいながら、先日こんな本を読んでみました。

「絶頂美術館」 ミュージアム オブ エクスタシー・・・

タイトルがちょっとドッキリでございますね 笑

絶頂美術館

絶頂美術館

  • 作者: 西岡 文彦
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2008/12/18
  • メディア: 単行本


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さて、わたくしが子供の頃っていうのは、

すくなくとも日本の芸術の潮流の分野に置きましては、

美術でいえば、近代絵画においては印象派一辺倒でございました。

ついでながら、音楽といえば、ベートーヴェンだったように思います。

モーツァルトなんてケーハクなロココ的感覚の作曲家だとして、軽んじられていたような気がするし、

ましてや、わたくしの好きなドビュッシー、ラヴェルなどは完全に差別されていたと思います。

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しかし、あれからン十年、日本も少しは成熟したんでしょうかね?

イヤ、思うに1970年代っていうのは、クールで無機質な演奏が好まれた時代だったんだと思います。

その背景には科学万能崇拝みたいなものもあったというか・・・。

最近はその反動なのか、もっとセンチメンタルでロマンティックなものもいい、という

考え方に修正されているような気がしますね。

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さて、日本は幕末に開国したとき、ちょうどおフランスは印象主義が跋扈する時代だったのでした。

それで黒田清輝みたいな洋画のパイオニアたちはあちらから印象主義というのを

持ち帰ってきたというわけです。

ですので、それまで主流だった新古典主義とかロマン主義とかリアリズムみたいな

ものは持ち帰らなかったような気がしますね。

日本人にはモネのような風景などを描いた絵の方が好ましかったのでしょう。

日本では裸の絵を「芸術」だとして鑑賞するという習慣はありませんでしたから。

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ルネサンス以前は、裸というのはタブーだったのです。

罪です、裸を人前にさらすのは。

しかし、ルネサンスになりますと、ギリシャ哲学が再びよみがえりまして、

ギリシャというのは、完全な肉体というのを非常に尊びますので、

絵画および芸術のほうにもその潮流は押し寄せてくるのです。

たとえば、超有名なボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」とか。

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ルネサンス以前は、キリスト教じゃない異教の女神の裸像を描くなんて

とんでもないことでした。

でも、ここが肝心なところでして、当時でもタダの生々しい裸を描くってことは

御法度だったんですよ。

とにかく「神のように美しい裸形」ということが大事だったんです。

美しい容貌、美しいプロポーション、美しいしぐさ・・・。

こういうのがとっても絵画において大事な要素だったんです。

以前書いたトピの中で、辻邦生のボッティチェリの生涯を描いた「春の祭典」にも詳しいですが、

http://blog.so-net.ne.jp/sadafusa/2012-05-17/trackback

ボッティチェリは、あるときシモネッタ・ヴェスプッチという非常に美しい人と出会う。

最初であったときは、愁いを知らぬ、どちらかといえば生気にあふれた元気溌剌な少女だったのだけれど、

彼女は結婚してのち、初めて人に「恋する」ということを知ったのです。

そういった、不仕合せからくる、愁いの表情をみてボッティチェリは確信するのですよね。

彼の求め続けていた普遍的な女性像、インスピレーションの源は彼女にこそある、ってね。

ですから、このヴィーナスもモデルは当然、シモネッタでございまして、

やはりどこか遠くを見つめて放心したような、一種の甘い疼きみたいなものを

彼女の表情から感じ取ることが出来ます。

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なんか前置きが長くなっちゃったけど、

要するに、印象主義というものが始まる前には、

絵のテーマというのは、なんでもいいわけじゃなかった。

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 ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。裸体もその時代の美意識が反映されています。

これは、それなりにスレンダーながら、後世の新古典主義の絵画などよりもずっと肉感的です。

壮大な歴史の一場面か、キリスト教の物語か、あるいはギリシャ神話などから

テーマをかりてこなけりゃならなかったんですね。

しかし、そうやって16世紀ぐらいからず~っと

そういうのにばっかり固執していると、

どこか、テクニックにばっかり走って、マンネリになっていくんですよ。

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ま、だから実をいえば古典主義っていうのはルネサンス以降、連綿と続いていたわけなのですが、

時期的にはフランス革命の前後に、ヴィンケルマンって人がローマの遺跡を発掘し、

一大ローマブームが起こったわけなのです。

当時の人は、古代のギリシャ人の、ローマ人の作った白亜の大理石の

彫刻を見て、感動するわけですよ、なんて美しいんだ!ってね。

それで、まぁ「新」がついた古典主義が出てきたんです。

新古典主義・・・・。

それから、ダヴィッドとかアングルの絵画を見ればわかるように、

彫刻のような質感をもった体が二次元上に再現されるわけです。

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で、フランス革命ってそのまま、すっと民主制になるわけじゃなくて、

ナポレオンが覇権を掌握して皇帝になったり、廃位されたり、

王政が復活したり、また第二次帝政が復活したりで、

フランスのモラルっていうのも、なんだか以前とは様相を異にしていて、

どことなく、バブリーでスノッブなものになっていく傾向があるんですよ。

・・・・・まぁ、本当の貴族はギロチンで首を斬られて、成金のブルジョアが台頭してくるんですよね。

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そうしますと、やっぱりそういうスノッブな連中のニーズにこたえるような絵が出現してくる・・・

とわたくしはそう考えますね。

で、そのスノッブな絵の代表作がカバネルの「ヴィーナスの誕生」だというわけです。

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 ナポレオン三世が「これこそ芸術だ!」といって絶賛し、

お買い上げになったという有名な逸話つき。

これは発表当時から「アカデミック・ポルノ」だとして有名な絵でした。

これって、徹底したリアリズムで描かれていながら、

絶対に現実ではありえないようなことが絵の中で起こってますね。

波の上に寝そべるヴィーナス。

子供が見ても、「なんかすごい絵だなぁ・・・」と思うと思いますよ、実際。

ま、そういう風に描かれているんですけどね。

要するに、これはヴィーナスというのは体のいい口実であって

実は女性がエクスタシーに達するその瞬間が描かれていると、

見る人がみれば、ばっちりわかっちゃうような絵なのです。

ま、しかし、これはなにもカバネルだけの専売特許というわけでもなく、

この時代、これと似たようなポーズのヴァリエーションというのは、たくさんありました。

実際、この間、見てきた「大エルミタージュ展」でも

ジュール・ルフェーブルっていう人の「洞窟のマグダラのマリア」(1876年)っていうのが

ありましたしね。

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 この絵、なにが「洞窟のマグダラのマリア」なんだか・・・

嗤っちゃいますよね。しっかり指先が反っているのに注目。

彫刻のような滑らかな肌。

肉感的ではなく、まるで大理石のような質感でもって描かれるのが

この時代の好みでした。

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 テクニックは万全ながら、印象が薄いブグローの絵。

おんなじ貝の上に乗ったヴィーナスといえど、こちらは安っぽいセンチメンタリズムしか感じられない。

彼は生前非常にもてはやされたが、死後あっという間に忘れされた一人だ。

カバネルのヴィーナスにはもはや、ボッティチェリの愁いは消え、

薄く目を広げ、上気しているように見える。

それもそのはずですよね。

ごていねいなことに、わたくしは本で指摘されるまで気が付きませんでしたが、

足の親指が反っているのが、エクスタシーに達している証拠なのだとか・・・。

・・・・この時代の男性ってホントウにある意味、オタク的にエロいですね↓

ただし、こういう絵であっても絵画の決まりをキチンと守っていたので、

世の中には立派に芸術だと認められていたのです。

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ただね、本にも書いてありますが

エクスタシーっていう状態っていうのは、

やはり、不思議な感情というか状態であって、

ある意味神秘的な感慨にうたれるもんなんだと思うんですね。

本書を引用いたしますと、

フランス語に「小さな死 petite mort」という言葉があるという。

性的な絶頂感やその後に訪れる深い眠りを指す言葉である。

人間の性愛のあり方について深く思索したことで知られる、現代フランスを代表する

思想家ジョルジュ・バタイユ(あ~、あのわけわかんない「マダム・エドワルダ」の作者かぁ・・・)は、

この「小さな死」を最終的な死そのものの予感としてこそ、

人間は十全に生きられるのではないか、と書いている。

人間が性的な絶頂を感じる際にやってくる、全面的な無防備、

すべてを相手に委ねて投げ出してしまうような感覚は、

おそらく私たちの知っているものの中で一番死に近いのかもしれない。

そうした絶頂感でのみ、人はすべてを自身が掌握し管理していなくてはならない

という重圧を逃れることができる。

全面的な放棄と敗北にも近い感覚で、自らのすべてを相手に委ねるとき、

はじめて私たちは自分がこの宇宙の中で孤立した存在ではないということを実感できるのかもしれない。

とあります。

ん~、なるほど。

しかも、人間ではなく、神との合一による「法悦」とは「ウォルプタス」ともいい、

それは単なる快楽ではなく、美徳であるそうです・・・・。

んんん~、なんか奥が深いなぁ。

たしか密教にもそういうのがあったよね、「男女の交わりで感じる歓喜とは菩薩の境地である」とか?

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多分、この絵をみる男性は、女神とのウォルプタスを感じているんでしょうね。

フェミニズム的な観点で見ると、こういう絵は女性蔑視だ、ということもいえるそうなんだけれど、

わたくし個人に限って言えば、男神のウォルプタス状態ってどういうのをいうの?

はっきりいってそれは絵にならない、と思う。

あるいは「聖セバスチャン」みたいなちょっときわどい絵を見て萌えるのか?

わたくし、まったくBLとか読めない人だからそういうの、わからないな。

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 こういうアポロと美少年みたいなBLのノリみたいなテーマも非常に流行った。

こういうのは、ホントわかんないなぁ~。ヘルマフロディトス的愛なのか・・・・???

ひとつ、可能性をいえば、女性はそのウォルプタスを感じている女神に自己を投影しているんです。

だから、相手は当然、自分がココロの中で思い描く美しい男神でしょうね、もちろん。

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だけど、こういう小技を効かせた細部にばっかり注意を払っている絵っていうのは

衰退していくものです。

のちのクリムトの「ダナエ」に見られる、生命力にあふれるこのすさまじい迫力には

さすがのカバネルも影が薄く見えてしまいますねぇ~。

後世畏るべし、なのですよ☆

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これをパダンゲ(ナポレオン三世)がみたら、なんというか、
聞いてみたかったようなきもする。

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sadafusa

追記: 今日は、気分的にダークなので、
このような激しいテーマはなかなか書くのが大変でした・・・。


by sadafusa (2012-11-03 17:16) 

sadafusa

>nikiさま 月乃さま ため息の午後さま
 nice ありがとうございます!!
by sadafusa (2012-11-05 13:42) 

sadafusa

>月夜のうずのしゅげさま nice ありがとうございます!!

by sadafusa (2012-11-05 21:39) 

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