彫刻にまつわる考察 [ちょっとした考察]
sadafusa、彫刻については全くの門外漢ですので、
これまであんまりチョーコクってことについて
深く考えてこなかったのですが、
ちょうど昨秋、非常にめずらかなことに
「日展」に行きまして、受賞者たちの立体造形を見てきました。
感想は・・・・・「ウマいと思うけど、感動しない」
というさびしいもの。
でも、じゃあ、どうしてなのか・・・・と考えてみたのです。
というのも、その立体造形の大半が写実主義だと思うのです。
そこらへんに歩いていそうな人が裸になって無防備に立っているか、
なんかちょっとだけポーズつけているか・・・・。
製作者の方々は、ただぼけーっと作っているハズがないので、
そう感じてしまうのは、なんとも申し訳ないのですが・・・。
そこでふと思い出しました。
なぜ、マネの「オランピア」が発表当時あんなにも世間の怒りを買ったかということを。
つまりこうです。
マネはモデルを実際に存在している娼婦を使って描いたからなのです。
娼婦を描いたことがけしからん!というモラルの問題ということもあるかもしれませんが、
実はもっとヨーロッパの人は根深いところで、芸術というものは「かくあるべき」みたいな
確固たる信念があるような気がするのですね。
それはさかのぼればギリシャの彫刻にまで行き着くものだと思います。
ヴェルヴェデーレのアポロン。
ローマン・コピーです。向かって右足の「遊足」のポーズが美しすぎます。
子供のころはなんでこのニィちゃん、マントつけてんのに
肝心なところ隠していないんだろうと下世話なギモンを抱いていました・・・・オバカ。
ギリシャ人は、「神々という存在は、絶対的な美でなければならぬ」と確信していました。
よくギリシャ神話を読んでいると、神様たちは
自分が神様であることを人間に悟られぬように
自分の美しすぎるからだをそこらへんにいるような貧弱な体にやつして
人間に接していた・・・・。
はじめ、この意味がよくわからなかったんですね。
「なんで?」「人間だってきれいな人いるじゃん?」
そうではなくて、圧倒的に美しい。神とはまったくもって完璧な肉体を持った存在なのです。
だから、世間にキレいな人がいると、その人は「神の恩寵が篤い」と思われた。
逆にいえば、醜い人は「罪びと」というより
「神に見放された人」なのかもしれません。残酷な考えですけどね。
それがたとえキリスト教社会になっても、どこか感情の奥深いところで
そういう考えは滔々と流れていたんでしょう。
そうじゃなかったら、「ノートルダム・ド・パリ」のカジモドなんて
どうしてあそこまでいじめられるかが理解できない。
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ギリシャ彫刻は(ローマン・コピーにしてもですが)
ほとんどといっていいくらいはだかの肉体が表現されている。
それはなぜかというと、圧倒的に美しいから、はだかの肉体をさらすことが許されるからです。
・・・・・う~~ん、言ってることわかるかな~。
反対に言えば、醜い肉体は人目にさらしちゃいけない、ってことです。
たいていの人間はカミサマみたいに完璧な肉体をもってないから、
しょうがない、衣服でその肉体を隠しておけい、ってことですね。
ということで、その昔のギリシャの彫刻家というのは、一生懸命
美しい肉体とはどういうものなのかというのを考えたんでしょう。
その結果、カノンとか黄金分割とか8頭身とか
これが一番美しいと思われるプロポーションの比率を編み出したのでした。
でも、って思うんです。
これってたぶん、日本人の美意識には当てはまらなかったんじゃないかな。
というのも、今も昔もヨーロッパから中近東にかけて、つまりアーリア人種と呼ばれる人には
実際に彫刻みたいな体の人がいますからね。
やっぱり、それは単なる創造の産物じゃないのです、絶対にモデルがいた、と思うのです。
それに、アーリア人は妙に体の凹凸がはっきりしてますしね。
今でこそ、日本人もアーリア人なみにカオを彫りも深けりゃ、
脚も長い、背が高いってひと珍しくなくなりましたけど、
(テルマエの主要キャストがオール日本人でやるっていう・・・・・笑)
あの、圧倒的な体の厚みっていうのは、やっぱりないかなぁ~。
どれだけボディビルやったとしても、シュワちゃんみたいになれないでしょ?
シュワちゃんのターミネーター見てて思ったけど、
上半身がすっごくゴツいのに対して、意外と下半身は細いってことですよね。
日本の仏様たちを見ると、
美しいです、静謐です、荘厳です。
しかし、それはヨーロッパとは別な思想に基づいているものなのね。
だって、仏教は「涅槃の境地」とか「悟りを得る」ことが
一番大事なんですから。ヘレニズム彫刻より、より精神性を重要視したのだと思います。
(とはいえ、一番最初のガンダーラ仏はヘレニズムの洗礼を受けているというこの不思議!)
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それに仏様たちが「静」とするならば、やっぱりヨーロッパのものは「動」です。
そして、360度パノラマ展望できるように、より立体的です。
この間、平野啓一郎の「葬送」を読んでいるとき、
オーギュスト・クレサンジェの彫刻のことが出てきましたので、
画像検索していましたが、
この「蛇に噛まれた女」っていうのは、まぁテーマのとおり蛇に噛まれてのけぞっているんだけど、
いろいろな角度でみないとその全貌が把握できませんね。
それに、たぶんふつうだったら絶対にこんな苦しくて無理なポーズは取れない、って恰好してますよ。
あと、複数で組ませるのも好きね。
ダンテの「神曲」に出てくる永遠の恋人、パオロとフランチェスカ。
彼らはたとえ地獄に落とされても、お互いを求めることをやめようとしない。
究極の愛の形を表現してます。
それにしても、悩ましいのはパオロの「手」ですよ。
わたくしは、この手にヤラレました。
恋人に対する愛情表現が見事に表れてます。
ルーブルにある、18世紀のイタリアの巨匠、
アントニオ・カノーヴァの作品。
美しくてダイナミックな作品だけど、よく考えたら
こんなに女性のほうがのけぞってキスなんてできないんだってば。
これもロダンの作品「永遠の青春」
さきほどの「抱擁」ほど傑作じゃないと思うな~。
すっごく動きはあると思うけど・・・。
ベルニーニの大傑作、「アポロンとダフネ」
イタリア人は古来より残された大傑作に取り囲まれていたせいか、
こういうの作っても、あんまりローマ時代との差異をそれほど
感じさせないですね。
わたくし、最近はデュマ・ペールの「ダルタニャン物語」を読んでおりまして、
実は世に言う「三銃士」の物語は全部で11巻あるうちのホンのサワリで2冊分なのですよ。
だから、日本人はたいていダルタニャン(ダルタニアンではない)のこと、少年、と思っているけど、
壮年で活躍しているほうが物語の比率では長い。
そういうわけで、パリのデュマの像の下にはダルタニャンが座っているのですが・・・・。
これこそ、「泰然自若」とか「威風堂々」というコトバを具現したものではないでしょうか?