~法治国家『日本』の威信に賭けて~ 『藁の楯』 [読書&映画]
今日は、夫サマとおデートで映画を観てまいりました。
観てきたのは、『藁の楯』サブタイトルが「わらのたて」と書いてあるのは笑えました。
『藁の楯』じゃ、読めないよ~☆
この間見た、妻夫木聡が主演した『黄金を抱いて翔べ』もそうだけど、
最近の日本も、この手の映画は面白い。
アメリカのクリストファー・ノーラン監督の映画も映像がスタイリッシュで、好きなんだけど
やっぱり、あまりにスタイリッシュであるがゆえに、
やはり絵空事にしか、思えない弱みがあるのね。
これだって、やはり絵空事にはちがいないんだけど、
「ひょっとして…?」みたいな、恐ろしさがありますね。
そういう意味で、大変秀逸な映画であります☆
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さて、あらすじを、かいつまんで言いますと
殺人事件が起こるんです。
そして、これはいわゆるひとつの「快楽殺人」でございまして、
七歳の幼気な少女が、一人の変態になぶり殺しにされてしまうのです。
悲しいけれど、イマドキはそういう殺人はめずらしくなくなりましたね。
で、問題なのがここから。
この殺された少女の祖父はかつて日経連の会長もしていた
財界のトップ(山崎努)で、目の中に入れても痛くはないほど溺愛していた孫娘を殺された
私怨を晴らすため、どういった法の目をすり抜けたのかはわからないけれど、
ともかく、新聞に一面広告をだすのです。
孫娘を殺した犯人を殺した人に10億円差し上げる、と。
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犯人・清丸(藤原竜也)は、それまで某所で見つからないように潜伏していたのですが、
10億に目がくらんだ有象無象の輩から半殺しの目にあい、
あまりの恐ろしさに、自ら最寄の福岡県警に出頭するのです。
そして、東京の本庁へ護送しようとするのですが、
なにしろ、殺した人間には10億円を差し上げるというのだから、
護送中であろうが、皆、鵜の目鷹の目で犯人を殺そうと狙ってくるのです。
ならずものだけでなく、民間人だけでなく、警察内部の人間までも!
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そこで、こんな人間のクズのような男にもSP(大沢たかお・松島奈々子)が付けられるのです。
それもこんなクズにはもったいないほど非常に優秀な人材なのですね。
これを観ながら、わたくし先日読んだこの本を思い出しました。
それは黄文雄さんの、この本ですね。
この本によると、日本は江戸の昔から、いえ、聖徳太子の昔から「遵法主義」の
法治国家だというわけなんです。
日本の三権分立は欧米以上に徹底していると欧米から賞賛されているほどだそうです。
(黄文雄さんによりますと 笑)
じゃ、反対に法治国家じゃない国家はどうなのか、というと
それは「人治主義」で、法律はあるものの、それは為政者の考えひとつでどうにでも運用される。
突然の法律変更、改正などをする国家のことです。
北朝鮮などは、いうまでもなく人治国家ですわね。
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それはともかく、人が罪を犯した、という事実があって、
とたえその人間がどう見ても、一片の同情の余地もないほどの極悪非道の人非人であったとしても、
法治国家の中で罪を犯したのであったなら、
法によって裁かれて、罪を贖わなければならない、ということです。
同じ殺すのだったらば、正式に死刑の判決を待つまでもなく、
私刑で殺してやったらいいじゃないか、
どっちもおんなじことだろうと考えるのは間違いなのです。
法によらず、清丸を殺した人は、自分も「殺人」という罪を背負うことになります。
たとえ、被害者の家族であろうとも、それは赦されないことなのですね。
映画を観ていて思いましたが、いくら元日経連の会長から10億の報酬をもらったとしても、
もちろん、国外に退去ということもできないし、
やはり、前科者として、世間の制裁を浴びるでしょう。
日本は決して、ひとり勝ちを許さない国でも、あると思うのです。
そして、日本は永らく法が人を治めてきた、たとえそれが身分の高い藩主であったとしても、
過ちを犯せば、「腹を召す」ということも辞さない。
まさに、会津藩じゃございませんが、「ならぬことは、ならぬ」で
やってきた国なのです。
ですから、日本という歴とした法治国家である国の威信に賭けて、
私怨のために、護送中の犯人を殺されてはならないのですね。
どんなに、国民の税金の無駄使いといわれようが、人間のクズをそんなにしてまで
大切に扱わなければならないのかと罵倒されようが、
生きて東京まで護送されなければならない。
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現在の日本は下流社会ができた、貧困層と富裕層との二極化社会だ、といわれて
久しいですが、
まだ、自分だけのために、プライドも何もかも捨てて、
この映画のように殺人に走る人間が生まれる社会ではない、という希望は持っています。
いや、まだまだ日本の民度の高さというのは、そんなに簡単に壊れるもんじゃない、とも。
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とはいえ、もうぎりぎりの喫水線まで来ているかもしれません。
モラルの低下は。
やはり、ひとりひとりが心して自分の国を、世の中をよくしていこう、という
使命感が必要なのかな、と思いました。
リネンのストール [あみもの]
廃材活用(失礼) その③
去年、娘のために作ったリネンのカーディガンの残り糸が約50グラムありましたので、
それにお店で50グラム足してもらいまして、ストールを作ることにしました。
これがね~、掛け目して二度ひと目という、すごぶる単純な編み方なのですが、
私最後のひと目の前も掛け目していて、何十回繰り返しても上手くいかなかった!
昨日、先生に「最後は掛け目ナシです」と指摘してもらえて、やっと問題解決です。
どんなことでも「先達はあらまほしき」なのでありました☆
こんなに簡単なのに、一度間違えるとほとんど修復不可能な、シロモノなんです。
加えて!リネンの六本どりの糸がばらけてきて編みにくい。
あ~、そうだったなぁ~、リネンの糸は編みにくかったと去年の夏の思いが蘇りました。
なんか今度はまた、左の背中を痛めちゃって、
朝起きたら、息子がいきなりハグってきたので、スジが違った~。
かわいい5歳ぐらいの坊やならいざ知らず、もうすぐ20歳で体育会系なんだから
手加減してよ。
それは、ハグとはいわず、羽交い絞めというんだよ↓
なんか、めんどくさいのに、あんまり進まなくて、イラっとしますね☆
こっちはあんまり癒しにならないので、気が向いた時だけボツボツとすることにします。
まだ夏じゃないし(っていうか冬だし)
なんか模様見てると漁師の投網みたいな気も・・・・笑
スネイクのネックレス [アクセサリー]
また、スヌード [あみもの]
昨日、仲良しの友達と久しぶりに会ったら、
「実はスヌードの写真UPしていたのをみて、
わたしも編んでほしかったの…」
彼女は大阪に住んでいて、京都で遊んでいたんだケド、
じゃあ、せっかく京都にきたんだし、
北山のドログリーへいこうよ!ということで一緒に。
編むのは編んであげられるんだけど、
色だけはその人の趣味っていうか、好みがあって、そこまでは解らないよ~ 笑 、
いくら仲が良くてもね~。
彼女は栗色がちょっと混じった、グレー。
本当にドログリーはこういうシックな色目が豊富ですばらしいデス。
それで早く仕上げて上げたくて、(まだ、寒いし)昨日の夜頑張って編んで仕上げました。
今、宅急便で送ってきたところ。
彼女は、自分のスヌードの色に合わせて、店員さんと相談しながら
それにつける蝶々のブローチをアレンジしていました。
ほんと、ドログリーってかわいいものがゴチャってある感じで
あそこにいるとウキウキした気分になれちゃう!
しかし、店内撮影禁止ですので、その雰囲気はお伝えできないんだな。
ちょっと残念~~↓
ブローチ、出来上がったら、スヌードに付けて、わたくしに見せてね☆
それにしても、今日はちょっと目が痛い☆
本当は、娘のワンピの袖、頑張って編まなきゃならなんだけど
今日はお休みするワ。
さすがのわたくしも気力ばかりは盛んですが、
体力は如実に落ちてますね~。
ダメダメなようで、実はけっこうしたたか、かも。 ~和菓子のアン~ [読書&映画]
さてと、連日、ドフトエフスキーとかトルストイとか
ロシアの厚い雪にと出されたような、重厚なテーマの本ばかり読んでましたが、
さすがに飽きた(ー_ー)!!
もう、「生きるとは」「人生とは」「秩序とは」「神は存在するか」とか
どうでもいいです。
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ということでかる~く、オイシイお話が読みたい。
読書メーターでは常にトップにいたこのお話、実は夫サマが買って読んでおられましたので
ちょっと拝借いたしました。
「和菓子のアン」ですね。
主人公は「食べることが大好きな」18歳のちょっと太目の女の子、
梅本杏子です。
彼女は、勉強とか努力がキラぁい。なので、別に進学しようという意思もなく、
かといって、昨今のすさまじい就職戦線に乗り出すわけでもなく、
なんとな~く、デパ地下のある老舗和菓子店の売り子になるのでありました。
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このお話のウリはですね、和菓子にちょっとだけ詳しくなれるってことでしょうか。
わたくし、今住んでいるところ、老舗の京和菓子店の激戦地区にありまして、
ちょっと歩けば「鶴屋吉信」「虎屋」「塩芳軒」「玉壽軒」・・・・・。ちょっと北野さんのほうへいけば「老松」とか。
あと少し北のほうへ行けば粽で有名な「川端道喜」。
あそこの粽ってめちゃくちゃ高いけど、粽を包んでいる熊笹にめちゃくちゃこだわりがあるらしい。
超有名和菓子屋さんばっかり!ざっと思い出すだけでもこんなにたくさん。妍を競うように乱立している。
こういうところの上生菓子ってお正月にお茶会で食される
「おはなびら」こと「花びらもち」なんかだとな~んと一個1500円ぐらいしちゃうんですよ。
でもね、我々お菓子のことに精通していないものから見たら、
な~んて高い!と思われるかもしれないけど、
それも故ないことではないんです。
うちの息子が中学生だったころ、「なんでも体験学習」っていうのがあって、
ちょっとしたインターンみたいなのに、「虎屋さん」が受け入れてくださったんですね。
そこで起こったことを息子からあれこれ、と聞いていると本当に気の遠くなるような
細かい工程、そしてちょっとのミスでもはねられる厳しい品質検査を経て、
店頭にあのキレイなお菓子が並ぶわけですよ。
で、たぶんうちの子は虎屋さんの大変なご厚意だと思うんですが、
ご褒美として、店頭に並べられなかった紅白最中とか羊羹なんかをたくさん、たくさんもらってきていた。
本当にありがとうございます、虎屋さん。
「これ、ココが傷ついているやろ?だから商品にならへんのやて」と息子がコレコレと指差しますが、
母は皆目わからない。あ~、もったいないとは思うけど、
天下の「虎屋」たるもの、プライドにかけてそんな半端な商品は売れないってことなんでしょうね。
老舗の気概を感じました。
また、あるとき娘が日仏会館でフランス語習っていたとき、
やっぱり生徒さんの中に和菓子の職人さんがいらっしゃって、学んでいる理由を聞くと
「フランスのお菓子のエスプリを学ぶため」に渡仏するから、その準備とのことでした。
やはり、日本の京都だから、老舗だから、ってそこでふんぞり返っていられるほど
世の中甘くないんですね。甘いお菓子の世界でも。
おまけに茶道の家元である、表千家、裏千家、武者小路千家など
家のすぐそばにあります。
とにかく、なんかの薀蓄を聞こうと思えば、京都ぐらいそういうの、しゃべりたくて
うずうずしている人が潜在的にいるところってないだろうから、
ひとこと「お願いします!」な~んていった日には
「このアンは〇〇産の〇〇豆を使い、それを職人が〇日かけて、〇まるしながら炊き
そして、どうの、こうの、どうの、こうの」
ず~っとしゃべくってますわ。
確かに、日本のお菓子は細工も美しく、詫びた茶室で食べるとなおのこと、いっそう
そのはかなくも小さいお菓子に美しさが凝縮されているように思えて、
ただ、菓子を食べ、茶を飲むという、些末なこともとんでもなく美しい行為をしているのでなないか、
という高揚感があるのは確かかもね。
とにかく、日本人は昔から「見立て」ってことが大変上手で、
ちょっとした記号でもその奥を読み取って真の意味するところを知ることが、
教養ある文人である証拠でもあったし、まぁ、文人だけでなく、下手すれば横丁の八っつぁんや熊さんも
知っていたことだったのかも。
でも、そういうのは京都の余所行きの部分。
普段は京都の人は「おまん」(まんじゅう)とか、そういう肩のはらなくて
安くておいしいお菓子を食べてます。
京都ってこういう上生菓子ばかりを扱う専門店と
カジュアルで安くておいしい普段使いのお菓子を売る店は別なんです。
(「みつや」は一緒に売ってましたね)
ひっそりとしていて、看板もでてなさそうで、うっかりすると見過ごしてしまいそうな
小さな小さなお団子屋さんが、観光客は絶対に知りえない
地元では知る人ぞ知る「名店」だったりもします。
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さて、杏子と言う名前はクン読みすると「アンコ」になるという
同じみつやで働いている同僚の立花さんがいうので
杏子は「アンちゃん」という、可愛いニックネームをもらう。
実はね、最近、娘が就活していてなかなか決まらなくてやっとめでたく決まったものだから、
この話に出てくるアンのように「努力もせず」「目的もなく」、もちろん就活もせずに
安易にデパ地下の和菓子屋でバイトする子のことを
なんか反感もって読んでいたのだけれど、
反対に、こういう「何ができなくとも、食べることに対しては、誰よりも熱意があります」
みたいな子こそ、21世紀を担う人材かもしれない、とか思って。
アンちゃんの舌はとてつもなく、鋭い。
「安い!」と思って買ったクッキーを食べると、バターの代わりにショートニングかマーガリンが入っている!
バター本来のふくよかさがないっ!すぐにピピンと来るんですよ。
いくら見栄えをよくしてもアンちゃんの舌はすぐに真実を見抜いてしまうのデシタ。
温故知新で古いことも、知るように勉強し、和菓子だけの世界で安住することもなく、
また、あるいはたまには洋菓子と和菓子について、深く思いを巡らせることもする。
すばらしい!トレビアン!ですよ。
まさにお菓子の伯楽といいたい。
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きっとアンちゃんは5年後にはみつやのれっきとした社員になっているかもしれないし、
立花さんの師匠のところへ行って、和菓子修行しているかもしれない。
きっとアンちゃんはイケメンの立花さんのハートを掴んでいるので、
彼の方から「結婚してくれ!」ってプロポーズがきそう。
そう、アンちゃんはなかなかエッジの効いた秀逸な人材なんですよ。
そう、椿店長みたいに。
冗長な駄作 「戦争と平和」 by トルストイ [読書&映画]
このブログは基本、肯定的に受け止められるものだけを載せていくつもりだったけど、
でも、これだけの時間と労力を費やして読了したトルストイの「戦争と平和」。
世界的に名著だといわれているこの本について、やはり何かしら言わなければならない、
と言う気がしますデス、ハイ。
以前、トルストイの「アンナ・カレーニナ」と「クロイツェル・ソナタ」と「悪魔」を読んだのですが
「アンナ・カレーニナ」は、文句なしの一級品だと断言できます。
「クロイツェル・ソナタ」や「悪魔」も中編・短編ながら、ドキっとするほど鋭い心理描写で、
さすが~、文豪!と思いましたが・・・・。
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さて、この「戦争と平和」ですよ。ВОЙНA И MИP ですねぇ。
これはね、全部で6巻まであるんですね。ま~、長い、長いわ。
なんだかね、詰まり過ぎているんです。書きすぎているっていうか。
昔のバロック小説みたいに。
テーマがいくつもありすぎるんです、
裾野が広すぎる。もっと集約させたらいいのに、って思いながら読んでいましたね。
長くても「アンナ・カレーニナ」だったら、それなりにテンション高く持って読むことが出来るんですけど。
なんか感じとしてはロシア版「風と共に去りぬ」って感じ?あれも長いよね。
でも、「風」の場合は主人公はスカーレットと決まっているし、めまぐるしく場面が変わったとしても、
そこにあまり混乱は生じないですけどね。
ただ、「戦争と平和」については主に、三つの家族が出てきまして、いわゆる群像劇とでもいいましょうか。
まず ①ボルコンスキー公爵家
親父 ニコライ
長男 アンドレイ
嫁さん リーザ
妹 マリア
そして ②クラーギン伯爵家
こちらはわりとましかな?
親父 クラーギン伯爵
庶子 ピエール(なぜにフランス語?)
もうひとつ③ロストフ伯爵家
親父の伯爵
かあちゃん
長女 ヴェーラ
長男 ニコライ
次女 ナターシャ
次男 ペーチャ
子供たちの従姉妹 ソーニャ
最初は、これだけじゃなくて、うじゃうじゃうじゃ~っと人が出てくるんです。ほかにも。
で、何のためにこれだけ出てくるんだろうってくらい出てくるんだけど、非常に読みにくい。
それに、誰にフォーカスかかっているのかもわからないしね。
だいたいにして、重要な登場人物の三人までがニコライですよ。
ロシアにはニコライ以外の名前はないのか!って怒鳴りたくなる。
ほかにもあるでしょう?セルゲイとかミハイルとかイワンとか。
アンナ・カレーニナのときも思ったけど、夫のカレーギンと愛人のヴロンスキーって
どっちも「アレクセイ」なんだよね。まぁ、そういう偶然って実際にあるとは思うけど、
わざわざ作為的にそういうシチュエーションにせんでもよかとじゃないですか?
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ま、それでも段々にメイン・キャストはアンドレイとナターリア、そしてニコライ、ピエールなんだなって
いうことが2巻の中ぐらいからわかってくるんですけど!
もう、最初は「誰だっけ?コレ?」の嵐ですよ。
悪口ばっかり言っていてもしょうがないので、いいところを言います。
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これはね、わたくし人間ドラマとしては全く買っていないのだけれど、
これはね、ロシア側から見た、ナポレオンのロシア遠征という「戦争」を描いたものとしては
大変に評価できるものだと思うんですね。
常勝将軍であるナポレオンは誰でも知っている英雄なのかしれませんが、
ドイツや、スペインから見て、そしてロシアから見れば、「理不尽」そのものの存在ですよね。
で、さしもの不敗を誇ったナポレオンも広大すぎるロシアの領土と
冬の寒さには勝てなかった、ってことです。
本を読んでいると、モスクワを占領して、燃えちゃうのが9月ぐらいなんです。
でもね、わたくしたち日本人の感覚でいえば、9月、10月はまだまだ暑い。
しかし、トルストイの小説はグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦て話を作っているため、
私たちの暦の感覚より2週間ばかり遅く、しかも、ロシアはさすがに北国ですので、
10月にもなれば氷点下五度まで下がり、初雪が降るんだそうです。
うう、読んでいるだけでも寒い!
ひもじくて、まともに冬の装束も用意してなくて、いつもいつも野宿だったら、
敵にやられる前に、死んじゃいますよね。
ハイ、実際そうやって果ててしまった兵隊さんはいっぱいいたようですよ。
そして、この戦争に一番功績のあった元帥、ロシア最高司令官、クトゥーゾフ公爵ですが、
彼だけは、きちんと前が見えていた。
彼だけが状況の把握ができた。
彼だけが、総合的にロシアの国益がなんであるか解っていた。
で、クトゥーゾフは肉を切らせて骨を断つような、モスクワを放擲して撤退する、という作戦をとるのですね。
なぜかといえば、そこで戦ってしまったら、モスクワも失えば、ロシアの軍隊も失ってしまう、と考えたのです。
街は再建すれば元通りになるが、(それでもかなり痛いことではあるけれど)
命は失われれば決して帰ってくることはない。
で、もう一つ偉かったのが、南下すれば兵站とか糧秣が豊富なことは解っていたんです、フランス軍もね。
だけど、そこへは至らせずにコサック軍を駆使して、往行のとき、さんざ荒廃させたスモレンスク街道しか
通らせなかったことですよ。スモレンスク街道には、もはや食料も馬も何もない。
そんなところへわざわざ、敵を蹴散らしに行かなくても、フランスさんのほうで勝手に自滅してくれます・・・。
おお、なんて素晴らしいストラテジー!
常に大局というものを見据えた大人物だったのです。
当時はクトゥーゾフという人物はあまりに突き抜けた人物だったので、
だれも彼のホントウの偉さっていうのが評価できなかったみたいです。
で、アウステルリッツで敗れた後(これもどれだけ、ナポレオンの軍略がすごくて
それを早い段階で気付いて、損害を最小限に押しとどめたクトゥーゾフの才能が理解できなかった)
クトゥーゾフは左遷され、バグラチオンに功績あり、として祝賀会を開いているあたりが可笑しいです。
・・・って日本だって第二次世界大戦中の大本営発表の戦勝報告なんて嘘っぱちだったですから、
人のことは言えないんですけどね 笑
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ですが、なんていうんですかね、ペテルブルグで戦争の全く悲惨さを知らず、
社交界やなんかで遊蕩にふけっている人は、現場の人の困難さなんてまったく理解できないんですよ。
あいかわらず、平和ボケしていて人のうわさ話とか、当てこすりとか、足の引っ張り合い・・・・。
自分自身全く犠牲も払わず、人の痛みなんてわからない人は、
皇帝に阿諛追従しているばっかりで、元帥の苦しい心の内など理解できようはずもなく、
軽蔑したり、自分が今度はこの出来事のおかげでどんな高いポジションが狙えるかっていう
小さいことばかり考えているんですね。
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こんなに自分の快楽の追求ばかり熱心で、人を人とも思わないような貴族ばかりがいるようでは
やはり、早晩ロシア革命のような大手術が必要だったのかも・・・・と思わずにはいられなかったです。
まぁ、そういう歴史的な意味では興味深い6冊ではありましたが、
もう二度と読みたくない!っていうのが正直で率直な感想です。
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順番がめちゃくちゃで申し訳ないんですが、
この話を読んでいて常に脳裏を横切っていたことがあります。
それはね、男女間の「人を好きになるってどういうことだろう?」ってことですよ。
主人公のひとりであるアンドレイは出身が公爵家という高い身分であるからか、
はたまた、高い教養を身に着け、キレるアタマの持ち主だったせいか、
あるいは、眉目秀麗な貴公子だったせいなのか・・・・なかなか妍かいな性格なのですね。
彼は最初、リーザという女性を妻にしていたんです。
このリーザは社交界では人気者で、コケットを振り回して、その場を明るく楽しいものにすることのできる
才能があったのですが、アンドレイってそういう妻のケーハクなところが赦せなかった。
で、リーザは身重でもうすぐ子供が生まれるっていうのに、アンドレイはリーザの「行かないで!」っていう
懇願を振り切って出征しちゃうんですよ。・・・・冷たいねぇ。
アンドレイとしては、自分が戦死する確率のほうがべらぼうに高くて、そのあと残されるリーザは
不憫ではあるな、とチラと思うんだけど、結果的にリーザの出産はとても重くてそれが原因で死んじゃうんですよね。
そこでアンドレイは自分がいかに勝手でリーザに申し訳ないことをしたか、ってシミジミしちゃうんだけど、
だからといって、そこで深い心の変容みたいなものは感じられないんだな。
で、その後、それでも失意にくれていたアンドレイはそれこそ「生命の息吹」そのもののような
生気にみちてキラキラした美少女、ナターシャを見初めて結婚を申し込むんです。
ま、ひと目ぼれしたんだろうな、ってわかるけど、ナターシャの家は貧乏貴族でして、
アンドレイの父親はこの縁談には乗り気じゃないんですよね。
それで「ちょっとお前アタマ冷やして、冷静になって、それでもあの娘が好きなら結婚したらよかろう」
ってアドヴァイスするんです。
で、アンドレイはナターシャを置き去りにしたまま、外国へ行ったっきりです。
そうすると、ナターシャは自分を持て余してしまうんです。アンドレイのことは好きだけど、
この自分の一生の中で一番美しい花の盛りをむざむざと散らしてしまうことに焦燥感を感じてしまうんです。
今のわたくしが読めば、「そんな大げさな~」と思うんですが、当時、結婚適齢期は早くて遅くても20歳までに
結婚しなければ行き遅れになった時代ですから、そういう焦りっていうのはすごいものがあるのかもしれないです。
で、そういう焦りを付け込まれてプレイボーイに誘惑され、駆け落ちしそうになり、それがもとで破断です。
ここらへんが、そうねぇオースティンの「プライドと偏見」のエリザベスの妹の駆け落ち騒ぎを彷彿とするし、
フランスだったら、生娘とこっそり関係を結び、そのまま口を拭っている「危険な関係」のヴァルモンとか
いろいろあるんだけど、ロシアはやっぱり世間的な戒律が厳しいのかなぁ~と思ったり。
アンドレイも器量が小さいなぁ、まだまだ子供のやったことだ、と大目にみることってできないんですかね。
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わたくしが思うに、男のほうはともかく、良家の娘は「恋に恋をしている状態」であって
恋愛の対象としている男性のホントウのところがわかっていないんじゃないかなと思うんですね。
結婚してみたら、実態ってこんなものなのか?ってあまりのギャップにびっくりするんじゃないかな。
最後のほうの春の妖精のようだったナターシャは
ピエール(急にデブでアホのピエールがしゃっきりとハンサムで賢くなっているのが解せないところです)
と結婚して何人もの子供を産んで
すっかりずっしりと太って肝っ玉かあさんみたいになって、それでシアワセって書いてあるけど、
なんかわたくしにはそれがど~にも解せないですね☆
もう少し、ナターシャやピエールには一度しくじった者としての、逡巡などがあってもいいような気がするんですね。
それに、結婚したらいきなり所帯くさくなって、ぬかみそ女房みたいになるのはどうなんでしょう?
別にフランスの貴婦人みたいに軽薄になれ、とはいいませんが
フランスの貴婦人はなぜそんなにも憧れられる存在かといえば、
やはり、その夫人の主催するサロンが素晴らしいものであったからでしょう。
そのサロンの女主人は芸術や文化の守護聖人であったのです。
サロンで紹介してもらって、そこの女主人が「あ、この人は!」と思う貧乏詩人、貧乏絵描きは
パトロンになってもらえて、世の中に出ることができたのです。
・・・・ロシアってそういうところがどうも出来てないような気がする。
最後のほうにピエールが仏軍の捕虜となって、一緒に行動を共にする百姓のプラトン・カラターエフを
一種の賢者と見做して、賞賛するくだりがあるんですけど、
わたくしにとって、そこがロシアの泥臭さだ、と思わざる得ないっていうか。
サロンで交わされる話がテレビのワイドショーもどきのような人のうわさ話に終始するようであれば、
そんなもの、なにが面白いんでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それに、青春のすべてを賭けてナターシャの兄ニコライを愛しぬいたソーニャですが、
ソーニャが一文無しのため、結局ソーニャは身を引いたんです。
それに対して、ナターシャは「彼女の存在はいちごの「むだ花」のようなもの」と一刀両断です。
・・・オマエ、どんだけ上から目線?って思いません?
こと、行動に関してはナターシャよりソーニャのほうが常識的だし、家族に対する献身の態度も深い。
あまりにも、ソーニャがかわいそうだと思うんですよ。
少なくとも、ソーニャは一緒に暮らしてきたニコライに対して、
きちっとどんな人かはわかっていて愛していたんだから、ナターシャとは立ち位置が違うと思うのです。
だから、ニコライとマリアが結婚した時点で、ソーニャに適当な伴侶を探してやるべきだったと思うんですよね。
フランス風にニコライがソーニャを愛人にできないんであれば、ね。
(そういう道もあったと思うよ)
とにかく、キャラクター設定が最初の部分で失敗しているように思えるのはわたくしだけ?
そのときの気分 [ワタシのキモチ]
わたくしの青春はまさにバブルまっさかりの時期でした。
今にして思えば、右肩あがりで、「おれってどうだ?スゴいだろう?」みたいな
「オレをみてくれ!オレを!」「アタシをみて!アタシを!」みたいな
アグレッシッブっていうか、反対にいえばガツガツしていたというか
行儀が悪いっていうか、そんな時代。
平成の今の世の中は~、そうねぇ、気分的にはバブル期ほど明るくないけど、
それでもあの頃と比べれば、何事も成熟して、洗練されているような気がするよ。
たえず、努力しているものだけが、今の状態をキープできるっていうか。
いいことばっかりでもないけど、そのかわりわるいことばっかりでもない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昨日、編み物の使う、棒針を買いに駅前のユザワヤへ行ったんです。それも初めて。
あそこ、なんていったんでしたっけ?
そうそう、ヨドバシカメラの中に入っているんですね。
もう、ヨドバシカメラとかビックカメラみたいなお店は、大嫌い。
もう、パチンコ屋さんの軍艦マーチみたいな曲がガンガンかかっていて
そういう高揚感のある曲を流していれば、心理的にイケイケ状態になって購買するのに
さらに拍車がかかるのかもしれないけど
わたくしは、ホシいものは欲しいけど、欲しくないものは一切買いたくないタチだし、
お買いものは、買うという行為に何よりも高級感とか奢侈とか
いつもはケチケチしていても、そういう付加価値を求めちゃうタイプだから
ホント、許せない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ユニクロでは、作るよりも気の利いた製品が売られている昨今、
自分でモノを作る意味っていうのは、「付加価値」しかない、と思う。
自分で作っても手作り感アリアリで、いかにも「おかあちゃん」の手作りでござい、
っていう作品しかできないのであれば、そんなもん、いらん、と思う。
(それを目指して頑張っている今日があるわけで
そういう境地というかそういう技術をすでに獲得しているわけではないのよ、念のため)
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わたくしが北山のドログリーを強く推すのは、やはり作っていてもワンランク上のものが作れる、
っていう付加価値からです。
パリから送ってくる美しい色や質感の毛糸、そして洗練されたデザインが提示できるからこそ、
ドログリーの存在価値があると思う。
同じ値段払っていて、市販のものより劣っているものを作るくらいなら、作らない。
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この感想はわたくしの傲岸不遜な意見でして、これを読んでいる皆様に共通する
考えではない、ってことわかっています。
アンタナニサマ?っていわれそうだけど、
イエイエ、わたくしただのパンピーですが、
パンピーなればこそ、お金の使い道を真剣に考えるのです。
だって、人生は一回きり。
自分が人生の主人公にならなくていつなるんですか?ってハナシ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちなみに、あたくしの愛する作曲家ドビュッシーって人は
フランス人だけど、まったくの庶民で、それもまともに学校すらいけないような人だったんだけど、
感覚がとても貴族っぽい人だったんだって。
そういう学校も出ていないため、まともに綴りもできないようなドビュッシーは
象徴主義的な、もっとくだけていえば、人工的に再構築したものが大好きだった。
お菓子も味さえよければいいの、みたなバーンとした焼きっぱなしみたいなお菓子はキライで、
ほんの少し、口に入るだけでいい。凝りに凝ったプチ・フールが好きだった。
たとえ、それが毎日食べられなくてもいい、それが三度に一度、いえ、五度に一度であってもいい、
それを食べたい、と思って生きていたそうですよ。
そう、わたくしもそんな風に生きていきたいの。
レオ・レオニ展 [できごと]
昨日、夫サマに京都駅にある伊勢丹で開催中の
レオ・レオニ展へいきたい!といわれ、お付き合いしました。
レオ・レオニってどっかで聞いたことある名前かなぁ~と
思われた人多いかな、と思います。
そうですね、小学校の二年生の国語の教科書で「スィミー」で御存じかと思います。
ああ、あの一匹だけ黒いサカナな話!
と思い出された方いらっしゃるでしょう?
わたくし、子供が小さいときは、成り行き上図書館通いが続きましたので、
どうしても児童文学とか絵本と接することが多く、
そのときは子供に読み聞かせながら、本当に多くの名作と呼ばれるものに出会いました。
もともと絵本の原画というものは「絵本になることを想定されて」描かれたもののはずですが、
実際に原画をみると、絵本でみたものとはまた違う、深い深い感慨ってものがありますね。
だんぜんナマなものは絵本と違って迫力があるのです。
切り絵である、ということはわかっていましたが、その切り絵になる前の素材が
自分で木版画をこさえて刷り上げたものであるとか、
葉っぱの形のスタンプを作って、紙にペタン、ペタンとおしていったものであるとか、
あるいは、水に油を浮かべて墨流しのように絵の具をいれて作ったマーブル紙であるとか。
さりげないけれど、そこには気が遠くなるような行程を経て生まれた絵がある。
やはりレオ・レオニ氏というのは、妥協というものが一切ない芸術家なのだなという思いとともに、
しかしながら、そういう妥協のない作品をまだ人生のスタートを切ったばかりの幼子を対象にしている
ということに深く感動したのでした。
子供だから適当なものでいい、よく「子供だまし」ということばを日本人は使いますが、
子供だからこそ、最上級の美しいものに触れてほしい、という氏の愛が感じられますね。
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お話も、勧善懲悪とか教訓的なものではなく、
「自分は自分なんだ」「自分をつらぬくことは大変だけど、素晴らしいことだ」
「自分はほかの何物にもなりえない」
そんなメッセージが随所にちりばめられています。
解説を読んでいると、レオニ氏はオランダで生まれ、イタリアで大きくなった人らしいですが、
ご自身がユダヤ系であったため、アメリカへ亡命した人なのだそうです。
しかし、何人であろうが、どんなルーツをもとうが、美というものに憧れ、芸術家を決心したのには
変わりなく、そして、どんなに環境が変わっても芸術家であり続けた信念の人だったのだな
と思います。
どんな話もちょっと風変わりで、なるほどなぁ~というような話ばかりです。
そこがまたすばらしい。
アレクサンダとぜんまいねずみ―ともだちをみつけたねずみのはなし
- 作者: レオ・レオニ
- 出版社/メーカー: 好学社
- 発売日: 1975/04/01
- メディア: 大型本
Leo Lionni レオ・レオニの世界 (e-MOOK) (e-MOOK 宝島社ブランドムック)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2011/11/18
- メディア: 大型本
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余談ですが、
よく似た絵本として、昔「にじいろのさかな」というのを持っていましたが、
わたくし、あれはいただけない本だなぁ~と思っています。
たぶん、「シェアリング」の尊さというものを表現したかったのかもしれませんが、
特別な存在だからこそ、あるいは人と違っているからこそ、誰かのために役に立っているということもあります。
にじうおのさかなは鱗がすべて虹色に輝く美しい魚でした。
しかし、それを人に見せびらかし過ぎたため、嫌われて相手にされなくなります。
そのため、にじうおは仲間に自分の美しいうろこをいちまいずつ、あげていくのです。
もらったみんなはよろこび、にじうおはにじうとでなくなった・・・・・。
これは一見、美談に思えるでしょうが、わたくしはね、これは偽善だと思うのです。
にじうおは最後までその美しい姿でほかの人の目を喜ばせる存在であったほうが
だんぜん存在価値があったはずなのに。
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レオ・レオニ氏のお話はそういうところからかけ離れている。
ひとりだけ真っ黒な魚だったからこそ、一族の危機を救えたスィミー。
世の中は「みんなちがって、みんないい」なのです。
出口のところに、読書コーナーがあって、レオ・レオニ氏が手掛けた本がずらっと並んでいました。
そこではもういい年をしたオジサマ、オバサマが座り込んでヒシっと本を読んでいる姿が印象的でした。
本物は、子供が対称のものであっても、大人を引き寄せる力があるもんなんですね。
謎のコトバ SKYFALL 007 [読書&映画]
ふふ。見てまいりましたよ~、スカイフォール。
とっても面白かったデス。
サテ、タイトルのスカイフォールっていう意味ですが、
「ハテ?」と思った人多いんじゃないですか?
「空が落ちる」?「空の滝」?うううむ~と呻っていたんですが・・・。
映画を観ていれば、その意味は解る!と言われていたので、
安心してください。見ればわかります。しかし、ここでいっちゃうと詰まらないので申しませんけどね。
ダニエル・クレイグがボンドに扮してから、007の作品はどこか深い悲しみというか陰りみたいなものが
感じられるんですよね。
美味しく感じられても、のどのあたりで感じる独特の「ほろにがさ」みたいなものがね~。
それは、ご覧になって各々が感じられればよろしいことですが、
今回は特別にいいたいことがふたつあります!!
Ⅰ 悪者はハビエル・バルデム!!
この人ねぇ~、ホント、マジでコワいです。
わたくしが今まで見た映画の中でマジコワい悪役として
①ターミネーターのシュワちゃん
②ダークナイトのジョーカー(ヒース・レジャー)
③ノー・カントリーのハビエル
でしたが、やっぱり③ほどのインパクトはないにしても、
ハビエルはコワイです。
①のシュワちゃんは別な意味で怖いんですが、
②③のジョーカーとかハビエルってもう「善悪の彼岸」を超えているんですよね。
どこかマッドで滑稽なのに、ものすごく残酷、というそのギャップがたまりません!
今回、ハビエルの顔をじっとみていると、右と左の鼻腔の形が違う・・・・・。
アレ?と思いましたが。
Ⅱ ボンド・ガールのベレニス・マーロゥのブラック・ドレスの美しさ。
ベレニス・マーロゥはもともとモデルさんです。
ボンドと並んで立っていてもそれほど身長が違わないくらいの長身です。
今回、マカオのカジノに現れる謎の美女に扮しているベレニスのドレス、必見です。
黒ってほんと、艶めかしい色ですよね。白い肌がさらに際立って見えますもの。
これ、英文で説明読んでいたら、「ブラック・タトゥ・ガウン」って書いてありました。
なるほど、わたくしはレースのようだ、と思っていましたが、向こうの人は入れ墨を連想するんですね。
それでも、この要するにタトゥの部分はスワロフスキーで仕上げられているそうです。
露出度の高すぎる水着や下着を着て現れるより、こういうドレスを着たほうが、
何倍も悩ましく見えてしまうのはナゼなんでしょう・・・・?
とにかく、ほかにもマカオの夜景のシーンとか本当に美しくて、ため息がでます。
尾崎紀世彦 [ワタシのキモチ]
昨日、007のトピを作っているとき、
「ロシアより愛を込めて」のことを書いていたら、
なんかムショーにその歌を聴きたくなったので、
youtubeで検索してみました。
やっぱりいいですねぇ。歌はマット・モンロー。
しっとりと歌い上げてます。
しかし、なんですね。この曲はいいんですけど、タイトルの画面がすごいわ。
昔はこういうのが流行ったんだろうか~。
トルコのベリー・ダンサーの身体の大写しにライトでキャストの名前なんかが入ってるんです。
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そしてトレーラーなどをみてたりすると、やっぱり昔のものながら
名作っていわれるものは、それなりに素晴らしく、今みても見劣りしないんですね。
猛烈に観たくなってきましたよ。
ところで、
そうやってyoutube旅行していると、
往年のスター、尾崎紀世彦がカヴァーしている
「ロシアより愛を込めて」があったんです。
ま、よくある「フロム・ラッシャ~、ウィズ・ラ~ブ」だけカタカナ英語で
あとは日本語のものなのかなとおもいきや、
ばっち、きれいな発音でめっちゃくちゃウマいんです。
びっくりしました。
たしかに尾崎さんは日本人離れしたスケールのデカい歌唱力を誇っていましたが
これほどまでとは知りませんでした。
彼の代表作である「また逢う日まで」は確かにいい曲で、
今でもフルコーラスで歌えるくらいですが、
あのころは、わたくし全くの子供でしたんで、
尾崎さんはモミアゲのなんかフランスによくいる、ジャン・ポール・ベルモントみたいなおじさんだなぁ~
ぐらいの認識しかありませんでしたが・・・・・。
最近、訃報を聞いたばかり。
ウィキってみると、彼のお父さんはイギリス人とのハーフなんだそうで。
もしかして、英語の発音がきれいなのはそのせいなのかもしれないですね。
で、このyoutube、比較的最近のものらしく、
マッチョな男くさい尾崎さんは、また別の意味で男らしくというか、
古武士のような風貌になっておられて、またびっくり。
しかし、ポニー・テールというのはよくあるにしても
あのヘアスタイルはちょっと・・・・。
おもわず「こち亀」の月光デカを思い出してしまいました。
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この「ロシアより愛を込めて」
絶品です。本家のマット・モンローよりいいかも。
ちょっと尾崎さんのほうが金属っぽい声で、力強いんですよね。
黒人さんみたいな歌い方かな~。
今、彼のベストのCDを買おうかどうしようか悩み中です。
昔だろうが、今だろうが、いいものはイイですもんね☆
ただし、どのCDをみても、「ゴッド・ファーザー、愛のテーマ」とかアダモの「雪が降る」はあっても、
この「ロシアより愛を込めて」がないんです↓
ナゼ? 著作権の問題なのかしらん?
http://www.youtube.com/watch?v=jA7rAEMZmdQ ←気になる方はコチラ