007はお好きですか? [ちょっとした考察]

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みなさん、スパイ映画は好きですか?

わたくしは断然この手の映画が好きですね。

最近、ダニエル・クレイグがボンドに扮してから

なおさら007シリーズが好きになりました。

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なんたって、007シリーズは派手なアクションという魅力もありますが、

必ずボンド・ガールという美女が登場し、

これまたお約束のように、ゴージャスなパーティ・シーンがある。

筋骨隆々とした立派なボディにタキシード、

美女はめりはりのきいた体に沿うようなソワレをお召しになり・・・・と楽しい。

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ゴージャスなホテルに、ゴージャスな車、ゴージャスなロケーションと結構、優雅な気分。

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この間、朝日新聞を読んでいたら、

歴代の007を演じていた男優さんおよび、

その作品についてのコラムがありました。

ルパン三世の原作者であるモンキー・パンチさんとか、

あと、何人かの007に強い影響をうけた6人ほどで、

何が一番好きか、などを討論したものでした。

で、みんな一様に一番好きなのは「ロシアより愛を込めて」でした・・・・。

なるほど、なるほど。

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次はだいたい「カジノ・ロワイヤル」だったかも

今のボンド、ダニエル・クレイグですね。ま、これも納得できるところです。

007と聞いて、「ロシアより愛を込めて」と連想行きがちですもんね。

それほど、スパイとしては傑作だったのだろう、と思うのです。

青池保子の「エロイカより愛を込めて」っていう漫画まであるものね。ウン、

今日、夫サマと「007」と聞いてすぐに脳裏に浮かぶ顔って誰?と話あっていたら、

「やっぱりショーン・コネリー」だろうねぇ。

とはいえ、わたくしたち実際にはでっかいスクリーンでショーン・コネリーをみたわけじゃない。

最初は超低予算映画の「ドクター・ノオ」から始まったんですね。

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でも、「ドクター・ノオ」って聞き馴れなくって、

「そんな作品あったかな?」と思っていたら、

実は当時、「ドクター・ノオ」というタイトルではなく、

007は殺しの番号」という邦題がついていたのですね。

ああ、どおりで聞きなれないわけです。

ついでに言えば「ロシアより愛を込めて」も

最初は「007危機一発(一髪ではない)」という邦題がついていましたが、

いつのまにか「ロシア・・・」のほうが人口に膾炙されておりましたとさ。

「ロシア」のほうがタイトルとして秀逸だわね、ロマンティックだしね。

だいたいね、今じゃ007のことを「ダブルオー・セブン」と普通にいうけど、

昔は「ゼロゼロセブン」といっていた。

ところで、わたくしが子供の頃からなんとなく、

その存在があったことはわかっていたけど、

はっきりと「この映画がすきだ!」と自覚したのは

たしか、高校か大学生のときに見た、「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」。

これはショーン・コネリーがもう一度なつかしのボンドに戻ってという、

ちょっと番外編みたいな映画。

コネリーが実はハゲ親父だったとカミング・アウトしたのもこの映画の時だったと思う。

でも、世間では「却って人間らしい、潔い。それにゲーハーでもコネリーはかっこいい。」

とかなり好意をもって迎えられたような気がするんですよね。

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さて、わかりやすいようにボンドの映画の表などを張り付けておきましょうか?

ヴィデオで見て一番笑ったのは、「007は二度死ぬ」。

これってわたくしが大好きな作家であるロアルト・ダールが脚本書いているらしいんだけど、

日本が舞台になるんだよね。

当時、日本ってアメリカから見て、こんな国だと思われていたんだなぁと思うと

一種の感慨がある。

しかし、どうキモノを着ようと、髪を真っ黒に染めようと、

絶対にショーン・コネリーは日本人にはなれないだろう・・・・と思いましたが。

浜美枝さんがボンド・ガールに選ばれて、

「国の誉れだ」みたいなこと、随分世間では騒がれていましたっけねぇ。

今の若い人たちって解らないだろうけど、

その当時の日本人の外国コンプレックスってそうとうなモンがあったんだろうと思う。

今は、別にフツーに長身で顔の整った人なんて、

日本人かどうかを問わず、アジア一帯に存在してますからねぇ・・・。

なんかそんな人種差別みたいなことも考えてしまいますねぇ。

ロジャー・ムーアのものはね、一度テレヴィで放映されていたのを観てたことがあったけど、

なんていうのかな、70年代の「科学万能主義」の気風が画面のそこここに漂っていて

その当時はハイセンスだったんだろうけど、今みると時代遅れもいいところ。

ほとんど噴飯もの、で見るに堪えなかった・・・・。

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ドクター・ノオ(007は殺しの番号)

1962

テレンス・ヤング

ショーン・コネリー

アーシュラ・アンドレス

ロシアより愛をこめて(007危機一発)

1963

テレンス・ヤング

ショーン・コネリー

ダニエラ・ビランキ

ゴールドフィンガー

1964

ガイ・ハミルトン

ショーン・コネリー

オナー・ブラックマン

サンダーボール作戦

1965

テレンス・ヤング

ショーン・コネリー

クロディーヌ・オージュ

007は二度死ぬ

1967

ルイス・ギルバート

ショーン・コネリー

若林映子/浜美枝

女王陛下の007

1969

ピーター・ハント

ジョージ・レーゼンビー

ダイアナ・リグ

ダイヤモンドは永遠に

1971

ガイ・ハミルトン

ショーン・コネリー

ジル・セント・ジョン

死ぬのは奴らだ

1973

ガイ・ハミルトン

ロジャー・ムーア

ジェーン・シーモア

黄金銃を持つ男

1974

ガイ・ハミルトン

ロジャー・ムーア

ブリット・エクランド

私を愛したスパイ

1977

ルイス・ギルバート

ロジャー・ムーア

バーバラ・バック

ムーンレイカー

1979

ルイス・ギルバート

ロジャー・ムーア

ロイス・チャイルズ

ユア・アイズ・オンリー

1981

ジョン・グレン

ロジャー・ムーア

キャロル・ブーケ

オクトパシー

1983

ジョン・グレン

ロジャー・ムーア

モード・アダムス

美しき獲物たち

1985

ジョン・グレン

ロジャー・ムーア

タニア・ロバーツ

リビング・デイライツ

1987

ジョン・グレン

ティモシー・ダルトン

マリアム・ダボ

消されたライセンス

1989

ジョン・グレン

ティモシー・ダルトン

キャリー・ロウエル

ゴールデンアイ

1995

マーティン・キャンベル

ピアース・ブロスナン

イザベラ・スコルプコ

トゥモロー・ネバー・ダイ

1997

ロジャー・スポティスウット

ピアース・ブロスナン

ミシェル・ヨー

ワールド・イズ・ノット・イナフ

1999

マイケル・アプテッド

ピアース・ブロスナン

ソフィー・マルソー

ダイ・アナザー・デー

2002

リー・タマホリ

ピアース・ブロスナン

ハル・ベリー

007 カジノ・ロワイヤル

2006

マーティン・キャンベル

ダニエル・クレイグ

エヴァ・グリーン

007 慰めの報酬

2008

マーク・フォースター

ダニエル・クレイグ

オルガ・キュリレンコ

こうやって眺めてみると、ちゃんと劇場で見たのは、いつごろなのかな?

たぶんロジャー・ムーアのは全く記憶にないから、見てないと思う。

なんとなく、ティモシー・ダルトンのは覚えているから、

劇場で見てなかったとしても、ヴィデオかなんかで観てるんだろうなぁ。

ただし、この頃っていうか当時のわたくしって

ティモシー・ダルトンがいかにイギリス的な男前でかっこいいかっていうのを全く理解できなくて、

ただ「なんかすごくコワい顔したオジサンだ」とか思っていて

・・・・子供だったんですね。

というか、彼は目力がとても強くてそこが受け入れられなかったのかもね。

この間、「アガサ 愛の失踪」っていう映画を改めて見ると、

惚れ惚れするほど美男子。それに上品だしね。

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なんでこの人の魅力に気が付かなかんだろう?と思うんだけど、

ま、それはしょうがないやね。

あとは、ピアース・ブロスナンのボンド映画は結構丹念に見ているんだけど、

わたくしからみれば、プロスナンって良くも悪くもソツがなさ過ぎて、

あんまり印象にのこらないんだよね。何となく紳士服のモデルみたいな感じがするし・・・。

やっぱり、ダニエル・クレイグの「カジノ・ロワイヤル」が一番好きだったかな。

金髪の新ボンドって、従来のボンド像を覆す!って結構話題になりましたけどねぇ。

ダニエル・クレイグは、顔だけ見ていると、

歴代のボンドの中では一番イケテない顔だとは思うんだけど、

なんていうかな、彼には何となくボンドが感じているであろう、

「心の痛み」とかスパイとしての「虚無感」みたいなものが伝わってくるんだな。

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今は「007」シリーズじゃなくても、

トム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」など結構カッコいい映画あるから、

007もしのぎを削って、アレコレと工夫しているような気がする。

今回「スカイフォール」も実は楽しみにしているんですのよ。

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せっかくですので、「ロシアより愛をこめて」の歌詞を訳してみました。

イギリス英語は難しいですね。 

From Russia with love I fly to you,
much wiser since my goodbye to you.
I've travelled the world to learn,
I must return from Russia with love.

I've seen places, faces and smiled for a moment,
but oh, you haunted me so.
Still my tongue tied young pride,
would not let my love for you show
In case you'd say no.

To Russia I flew but there and then,
I suddenly knew you'd care again.
My running around is through,
I fly to you from Russia with love.

ロシアより愛をこめて、君のもとへ飛んでいくよ。

君にさよならを告げたあと、僕はかなり大人になって

世界中を旅してそのことにやっと思い至ったんだよ。

ロシアから愛をこめて、

君のところへ戻らなければならないと、ね。

いろいろな場所や人々がほんの束の間、僕の心を慰めてくれた。

だからといって、ああ、君の存在はいっときも僕の心をつかんで離しはしなかった。

あのとき、君が僕の愛に応えてくれないことを恐れて、

青臭い矜持が、君に愛を語ることを許さなかったんだ。

それからロシアへ行って突然、天啓が閃いたんだ。

再び君が僕の事を気にかけてくれているって。

これで、僕の女遍歴は終わりだよ。

ロシアから愛を込めて、君のもとへと飛んでいくよ。


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~ゾクゾクするような充実感~     黄金を抱いて翔べ [読書&映画]

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 これ、大阪の北浜で撮影しているね。

後ろにはわたくし愛する紅茶専門店「北浜レトロ」(屋根がペーミント・グリーンのビル)が映ってます。

映画、「黄金を抱いて翔べ」を見に行ってきました。

どっちかというといつもは洋画よりのわたくしなんですが、

たまにみると、邦画もいいよね、って思う。

邦画には邦画にしか感じられない渋さがあります。

コレなんて見ていながら、あまりにリアルなんで

手に汗握って見てました。実に傑作。

洋画は、っていうか、例えばトム・クルーズの作品や007なんかは

たしかにアクションシーンもすごい迫力なんだけど、痛みが伝わってこないのね。

だいたいにして、トムやダニエル・クレイグってすごく体格立派。

どんなに高いところからジャンプしようが、肉弾を食らおうがヘッチャラって感じがするし・・・。

っていうか、そもそも初めから観客に「痛み」を伝えようという目論見はないんだと思う。

いってみれば、演じているスターの超人的側面を強調しているように思える。

だけど、この作品は見ているものに「痛み」がダイレクトに伝わってくるんです。

妻夫木くんたち、我ら同輩は西洋人に比べればずっと体は華奢な作りしているしね。

こっちは、等身大っていうかリアルに現実社会を生きている人間を表現したいのね。

吐く息の熱さとか、そういうの。伝わってくる。

そうすることで、当たり前のことなんだけど、

暴力ってやっぱり怖いんだ、痛いんだ、っていうか・・・・。

金属の金具なんかで力いっぱい殴られたら、

血も出るし、骨も折れる。内出血もして青あざもできる。

そんな普通の人間だったら当然感じる痛み、ね。

もしかしたら、その血を流している人は隣の家の人かもしれないっていう距離感。

ひいては、それは遠い地で行われているんじゃない、もしかしたら自分も感じるかもしれない痛み。

うん、そこらへんはたけしの映画のような痛さがあるかも・・・。

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さて・・・・。

あらすじをひとことでいってしまうと銀行強盗の話なわけですよ。

銀行の地下三階に眠っている金塊、時価にして240億円を奪うというもの。

そういってしまうと身も蓋もないってカンジだけど

この映画はね、目的がどうというよりも、

そこに至るまでの動機がものすごく大事なんですよ。

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こういう金塊をグループで計画して実行する、っていうと

ぱっと思いつく限りでは、ほら「ルパン三世」とか「オーシャンズ11」みたいなもの

ふっと思い出すと思うんだけど、

この映画はね、あんなふうに洒落ていて洗練されているわけじゃない。

計画する犯人たちは、もう市井では全く顧みられることさえないような

男たちばっかり。

ホームレスのような、やくざくずれのような・・・そんな社会の底辺に生きているような人々。

1990年に原作が発表されているけど、すでに下流社会というものを

作者はキチンととらえているよね。

定職もなく、教育もなく、家族もなく、温かい家庭の味すら知らず・・・・・。

野良犬のように育った男たち。

普段なら絶対に脚光も浴びることもなく、遠景としてグレーに染まってしまうようなそんな人たち。

だけど、そういう男たちは、野良犬がゆえの鋭い本能っていうか直感があるんだね。

でも、そんな街角に埋もれているようなゴミや枯葉みたいな存在が、

ある日何かのきっかけで魂が宿ってムクムクっと大きくなり、

不気味な人間の形をとって世間の前に姿を現すんですね。

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この犯人たちは全部で六人。

みんな過去に犯罪歴とか、自傷癖があったり、いろいろとスネに疵もつ御仁ばかり。

普段は、フリーターかトラックの運ちゃんとか、うだつの上がらないような仕事についているけど、

実は・・・・っていうウラの顔があるんだよね。

なんか犯罪の場所を大阪に持ってきたのがいいと思うんだよね。

実際、大阪ってそういう胡乱な場所や雰囲気があるから。

京都にずっと住んでいますが、京都にはない不鮮明さ、っていうのが

大阪にはあるように思うのね。

で、ま、いろんな特殊能力があるのね。

コンピューターのハッカーができたり、機械に詳しかったり、鍵を開けられたりとか・・・

でも、実行するにはどうしても「爆弾」作れる能力のいるヤツがいる、ってことで

もと北朝鮮の工作員をまんまと引き込むことが出来たんだけど・・・。

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はっきりいって、この人たち、ある程度プロなんだけど、でもね、

作戦は練りに練ったってわけでもなく、結構ずさんなんです。

で、この人ら、徹頭徹尾、他人が信じられない人たちで、

チームワークってものを知らない。

すぐに自分の利益になると思えば、仲間を裏切って密告したりするしね。

そこがまた、この映画の迫力あるところだわね。

結局、こいつらをつなぐものは「恐怖」っていうか、「血の糊」のみ、なんですよねぇ・・・・フゥ

だから、ほとんどの男たちはカネほしさにやるわけじゃない。 

それに実行に移す段階ではすでに大けがをしていて、

それしたら「死ぬやろ?」みたいな状態なんです。

家族が殺されたりして、大きな犠牲も払っているし・・・・。

本人たちもそれは解っていて、ヤバイな、とは思ってるんだけど

(ヤバイどころの話ではないんだけど)

だからこそ、強行突破する。

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そこには、世の中の底辺にむりやり押し込められた人間たちの不条理に満ちた社会に対する

復讐みたいなものも感じられるし、

また、毎日毎日、感情のない機械のようなルーティンワークを強いられて、感情がマヒした日常から

ドキドキワクワクというヴィヴィッドな感情が蘇る非日常への、自己回帰みたいなものも感じられる。

なにかゾクゾクしたことをして「生きていることを感じてみたい」ってことだと思う。

それが、悪いことであろうが、良いことであろうが、この人たちには関係ないのね。

大切なものや人、場所すらなくした心の喪失感、体に負ったずきずきするような痛みでさえ、

この人たちにとっては「生きたことの証」になるわけ。

本来なら忌まわしい行為である犯罪そのものが、この人たちにとっては「人生の祝祭」となりえる。

なにか、そこらへんのキモチが痛いほどこちらに伝わってきて切ないほどだった。

もう、終わったときはすごいカタルシス覚えて、うち帰って寝ました 爆


バベルの塔 [ワタシのキモチ]

ああ、今日はちょっとお酒を飲んでいい気持ち。

バーガンディのワインなんですけど、色がね、本当にきれいなの。

説明には、「ルビー色」と書いてありましたけど、違うね、

それはね、ガーネット色なんですよ。

いやだなぁ、ルビーはたしかに高価な宝石には違いないけど、

それは、希少かそうじゃないかっていうだけの違いでしょ?

美しいかそうじゃないかっていうのと、また話は別。

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さて、皆さま、バベルの塔の話を知ってます?

知ってらっしゃるかたのほうが多いと思うけど、

一応念のため。

これはね、旧約聖書の物語なんですよ。

あるとき、人間はかぎりなく高い塔を作ろうと思い立ったんです。

天まで届くような。

天まで届けば、人間だとて、神のような力を得ることができるかもしれないと。

しかし、神はそんな人間の増長慢な心をすばやく察知した。

そして、一致団結させないように、しゃべる言語をバラバラにして

人間と人間の意思を通じないようにした・・・

その結果、バベルの塔の建設は頓挫したのだとか・・・・・・。

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最近、こういう本を読みました。

「ラテン語の世界」

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産 (中公新書)

ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産 (中公新書)

  • 作者: 小林 標
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 新書


まえまえから不思議だ、不思議だと思っていたことがあって、

なんでアッピウスって人が作ったのに、「アッピウス街道」じゃなくて「アッピア街道」になるんだろうって。

みなさんもあの有名な「テルマエ・ロマエ」の名前を聞いてなんとなく違和感を感じませんでした?

なんで「ローマ」じゃなくて「ロマエ」なんだろう?って。

それは、はっきりと言えないけど、ラテン語って名詞も語尾が変化するみたいよ。

まぁ、英語も単数複数ってあるけど・・・・。そんなんじゃなくてもっと難しい。

そして、定冠詞もなければ、語順もないのだそうな・・・・。

だから、「ローマのお風呂」という意味のテルマエ・ロマエってたぶん複数形なのね。

お風呂と言う意味のテルマエだって単数だったら「テルメ」だと思うの・・・。(間違っていたらゴメン)

とにかくラテン語はすごく難しい・・・・・。しかし、それだけに話されることがなくなっても、

現在今日にいたるまで学術語として、生き延びることができた言葉なのかもしれません。

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ちょっとここでこぼれ話をひとつ―

みなさま、river と rival の関係って知ってます?

どっちもラテン語起源だそうです。

なぜ「川」が「敵」となるのか?

それはネ、「水争い」から来ているんです。

うへぇ~。いきなり日本の水飲み百姓の姿を思い浮かべるんですけど・・・・・。

結局、畑に水がいく、いかない、っていうのは死活問題なので、

水に関係した相手は「ライヴァル」となる・・・・とこういう図式だそうです。

・・・・・ふ~ん、イタリアも農耕民族ダッタンダナ・・・・と。

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あ~、よっぱらってるなぁ、と自覚しつつ、文の乱れは平にご容赦を・・・・汗

で、何を言いたいかっていうと、

この間新聞を読んでいますと、日本語はその昔、朝鮮語の源流であった言葉が

いつの時代かに分かれて、今に至っているということがわかった、と書いてあったことです。

さらに、その記事を読めば現在の「琉球語」というか「沖縄弁」は日本語なのか、そうじゃないのか、

ということですが、

関係性をいえば、沖縄のコトバはやっぱり日本語ではなく、「琉球語」なのだそうです。

ま、たとえていうなら、イタリア語とスペイン語ぐらいの距離だそうで。

琉球語も日本語がある時代から分化して今日に至っているそうです。

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そうやって源流を求めていくと、

今日、インド・ヨーロッパ語と呼ばれる言語は

その昔、サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語は親戚のような関係で、

もとはひとつの言語だった可能性が非常に高いのだと・・・・・。

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つまり、バベルの塔のお話もたんなる作り話じゃない、ってことです。

あ~、なんか起承転結がなっていないなぁ~、と酔っ払いは考えるけど、

これ以上はムリ。

みなさん、しょうがない与太話につきあってくれてアリガトね。


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本来はコチラが芸術の本道    「絶頂美術館 Museum of Ecstasy」 [読書&映画]

さて、少々おもはゆいながら、先日こんな本を読んでみました。

「絶頂美術館」 ミュージアム オブ エクスタシー・・・

タイトルがちょっとドッキリでございますね 笑

絶頂美術館

絶頂美術館

  • 作者: 西岡 文彦
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2008/12/18
  • メディア: 単行本


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さて、わたくしが子供の頃っていうのは、

すくなくとも日本の芸術の潮流の分野に置きましては、

美術でいえば、近代絵画においては印象派一辺倒でございました。

ついでながら、音楽といえば、ベートーヴェンだったように思います。

モーツァルトなんてケーハクなロココ的感覚の作曲家だとして、軽んじられていたような気がするし、

ましてや、わたくしの好きなドビュッシー、ラヴェルなどは完全に差別されていたと思います。

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しかし、あれからン十年、日本も少しは成熟したんでしょうかね?

イヤ、思うに1970年代っていうのは、クールで無機質な演奏が好まれた時代だったんだと思います。

その背景には科学万能崇拝みたいなものもあったというか・・・。

最近はその反動なのか、もっとセンチメンタルでロマンティックなものもいい、という

考え方に修正されているような気がしますね。

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さて、日本は幕末に開国したとき、ちょうどおフランスは印象主義が跋扈する時代だったのでした。

それで黒田清輝みたいな洋画のパイオニアたちはあちらから印象主義というのを

持ち帰ってきたというわけです。

ですので、それまで主流だった新古典主義とかロマン主義とかリアリズムみたいな

ものは持ち帰らなかったような気がしますね。

日本人にはモネのような風景などを描いた絵の方が好ましかったのでしょう。

日本では裸の絵を「芸術」だとして鑑賞するという習慣はありませんでしたから。

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ルネサンス以前は、裸というのはタブーだったのです。

罪です、裸を人前にさらすのは。

しかし、ルネサンスになりますと、ギリシャ哲学が再びよみがえりまして、

ギリシャというのは、完全な肉体というのを非常に尊びますので、

絵画および芸術のほうにもその潮流は押し寄せてくるのです。

たとえば、超有名なボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」とか。

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ルネサンス以前は、キリスト教じゃない異教の女神の裸像を描くなんて

とんでもないことでした。

でも、ここが肝心なところでして、当時でもタダの生々しい裸を描くってことは

御法度だったんですよ。

とにかく「神のように美しい裸形」ということが大事だったんです。

美しい容貌、美しいプロポーション、美しいしぐさ・・・。

こういうのがとっても絵画において大事な要素だったんです。

以前書いたトピの中で、辻邦生のボッティチェリの生涯を描いた「春の祭典」にも詳しいですが、

http://blog.so-net.ne.jp/sadafusa/2012-05-17/trackback

ボッティチェリは、あるときシモネッタ・ヴェスプッチという非常に美しい人と出会う。

最初であったときは、愁いを知らぬ、どちらかといえば生気にあふれた元気溌剌な少女だったのだけれど、

彼女は結婚してのち、初めて人に「恋する」ということを知ったのです。

そういった、不仕合せからくる、愁いの表情をみてボッティチェリは確信するのですよね。

彼の求め続けていた普遍的な女性像、インスピレーションの源は彼女にこそある、ってね。

ですから、このヴィーナスもモデルは当然、シモネッタでございまして、

やはりどこか遠くを見つめて放心したような、一種の甘い疼きみたいなものを

彼女の表情から感じ取ることが出来ます。

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なんか前置きが長くなっちゃったけど、

要するに、印象主義というものが始まる前には、

絵のテーマというのは、なんでもいいわけじゃなかった。

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 ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。裸体もその時代の美意識が反映されています。

これは、それなりにスレンダーながら、後世の新古典主義の絵画などよりもずっと肉感的です。

壮大な歴史の一場面か、キリスト教の物語か、あるいはギリシャ神話などから

テーマをかりてこなけりゃならなかったんですね。

しかし、そうやって16世紀ぐらいからず~っと

そういうのにばっかり固執していると、

どこか、テクニックにばっかり走って、マンネリになっていくんですよ。

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ま、だから実をいえば古典主義っていうのはルネサンス以降、連綿と続いていたわけなのですが、

時期的にはフランス革命の前後に、ヴィンケルマンって人がローマの遺跡を発掘し、

一大ローマブームが起こったわけなのです。

当時の人は、古代のギリシャ人の、ローマ人の作った白亜の大理石の

彫刻を見て、感動するわけですよ、なんて美しいんだ!ってね。

それで、まぁ「新」がついた古典主義が出てきたんです。

新古典主義・・・・。

それから、ダヴィッドとかアングルの絵画を見ればわかるように、

彫刻のような質感をもった体が二次元上に再現されるわけです。

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で、フランス革命ってそのまま、すっと民主制になるわけじゃなくて、

ナポレオンが覇権を掌握して皇帝になったり、廃位されたり、

王政が復活したり、また第二次帝政が復活したりで、

フランスのモラルっていうのも、なんだか以前とは様相を異にしていて、

どことなく、バブリーでスノッブなものになっていく傾向があるんですよ。

・・・・・まぁ、本当の貴族はギロチンで首を斬られて、成金のブルジョアが台頭してくるんですよね。

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そうしますと、やっぱりそういうスノッブな連中のニーズにこたえるような絵が出現してくる・・・

とわたくしはそう考えますね。

で、そのスノッブな絵の代表作がカバネルの「ヴィーナスの誕生」だというわけです。

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 ナポレオン三世が「これこそ芸術だ!」といって絶賛し、

お買い上げになったという有名な逸話つき。

これは発表当時から「アカデミック・ポルノ」だとして有名な絵でした。

これって、徹底したリアリズムで描かれていながら、

絶対に現実ではありえないようなことが絵の中で起こってますね。

波の上に寝そべるヴィーナス。

子供が見ても、「なんかすごい絵だなぁ・・・」と思うと思いますよ、実際。

ま、そういう風に描かれているんですけどね。

要するに、これはヴィーナスというのは体のいい口実であって

実は女性がエクスタシーに達するその瞬間が描かれていると、

見る人がみれば、ばっちりわかっちゃうような絵なのです。

ま、しかし、これはなにもカバネルだけの専売特許というわけでもなく、

この時代、これと似たようなポーズのヴァリエーションというのは、たくさんありました。

実際、この間、見てきた「大エルミタージュ展」でも

ジュール・ルフェーブルっていう人の「洞窟のマグダラのマリア」(1876年)っていうのが

ありましたしね。

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 この絵、なにが「洞窟のマグダラのマリア」なんだか・・・

嗤っちゃいますよね。しっかり指先が反っているのに注目。

彫刻のような滑らかな肌。

肉感的ではなく、まるで大理石のような質感でもって描かれるのが

この時代の好みでした。

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 テクニックは万全ながら、印象が薄いブグローの絵。

おんなじ貝の上に乗ったヴィーナスといえど、こちらは安っぽいセンチメンタリズムしか感じられない。

彼は生前非常にもてはやされたが、死後あっという間に忘れされた一人だ。

カバネルのヴィーナスにはもはや、ボッティチェリの愁いは消え、

薄く目を広げ、上気しているように見える。

それもそのはずですよね。

ごていねいなことに、わたくしは本で指摘されるまで気が付きませんでしたが、

足の親指が反っているのが、エクスタシーに達している証拠なのだとか・・・。

・・・・この時代の男性ってホントウにある意味、オタク的にエロいですね↓

ただし、こういう絵であっても絵画の決まりをキチンと守っていたので、

世の中には立派に芸術だと認められていたのです。

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ただね、本にも書いてありますが

エクスタシーっていう状態っていうのは、

やはり、不思議な感情というか状態であって、

ある意味神秘的な感慨にうたれるもんなんだと思うんですね。

本書を引用いたしますと、

フランス語に「小さな死 petite mort」という言葉があるという。

性的な絶頂感やその後に訪れる深い眠りを指す言葉である。

人間の性愛のあり方について深く思索したことで知られる、現代フランスを代表する

思想家ジョルジュ・バタイユ(あ~、あのわけわかんない「マダム・エドワルダ」の作者かぁ・・・)は、

この「小さな死」を最終的な死そのものの予感としてこそ、

人間は十全に生きられるのではないか、と書いている。

人間が性的な絶頂を感じる際にやってくる、全面的な無防備、

すべてを相手に委ねて投げ出してしまうような感覚は、

おそらく私たちの知っているものの中で一番死に近いのかもしれない。

そうした絶頂感でのみ、人はすべてを自身が掌握し管理していなくてはならない

という重圧を逃れることができる。

全面的な放棄と敗北にも近い感覚で、自らのすべてを相手に委ねるとき、

はじめて私たちは自分がこの宇宙の中で孤立した存在ではないということを実感できるのかもしれない。

とあります。

ん~、なるほど。

しかも、人間ではなく、神との合一による「法悦」とは「ウォルプタス」ともいい、

それは単なる快楽ではなく、美徳であるそうです・・・・。

んんん~、なんか奥が深いなぁ。

たしか密教にもそういうのがあったよね、「男女の交わりで感じる歓喜とは菩薩の境地である」とか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

多分、この絵をみる男性は、女神とのウォルプタスを感じているんでしょうね。

フェミニズム的な観点で見ると、こういう絵は女性蔑視だ、ということもいえるそうなんだけれど、

わたくし個人に限って言えば、男神のウォルプタス状態ってどういうのをいうの?

はっきりいってそれは絵にならない、と思う。

あるいは「聖セバスチャン」みたいなちょっときわどい絵を見て萌えるのか?

わたくし、まったくBLとか読めない人だからそういうの、わからないな。

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 こういうアポロと美少年みたいなBLのノリみたいなテーマも非常に流行った。

こういうのは、ホントわかんないなぁ~。ヘルマフロディトス的愛なのか・・・・???

ひとつ、可能性をいえば、女性はそのウォルプタスを感じている女神に自己を投影しているんです。

だから、相手は当然、自分がココロの中で思い描く美しい男神でしょうね、もちろん。

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だけど、こういう小技を効かせた細部にばっかり注意を払っている絵っていうのは

衰退していくものです。

のちのクリムトの「ダナエ」に見られる、生命力にあふれるこのすさまじい迫力には

さすがのカバネルも影が薄く見えてしまいますねぇ~。

後世畏るべし、なのですよ☆

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これをパダンゲ(ナポレオン三世)がみたら、なんというか、
聞いてみたかったようなきもする。

手こずる! 「平家物語」!  by 杉本秀太郎 [読書&映画]

もう、本当に読むのに手こずっております。

杉本秀太郎さんのエッセイ「平家物語、無常を聴く」

平家物語 無常を聴く (講談社学術文庫)

平家物語 無常を聴く (講談社学術文庫)

  • 作者: 杉本 秀太郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/08/09
  • メディア: 文庫


杉本さんは京都出身でご自身はすでに鬼籍に入っておられるものの、

生家は未だ健在で、歴史的建造物として今は一般公開しています。

杉本さんは、京大のフランス文学出身の文学者であり、

アナトール・フランスの「赤い百合」など

けっこう艶っぽいお話の翻訳も手がけておられ、それはそれでとても美しい文章で、

愉しんで拝読させてもらいましたが、

こんなに日本の古典にも造詣が深いお方なのですね。

この本を読むのは二度目なのですが、

一度目はあまりにわたくしメが

素養がないため、ギヴアップいたしまして、

しょうがないので、宮尾登美子さんの「平家物語」を読んだり、ドラマをみたりして

底が浅いながらも、再度挑戦したのですが、

いや~、むずかしい!

一度読んでもアタマに入ってこないです。

だからといって、じゃ難しいだけなのか、っていえばそうではなく

実に美しい文章だし、深い洞察なんですよ。

そういう意味では宮尾さんの平家物語なんてそばにもよれないくらい風格があります。

今、清水の冠者のところまできたんですが、

ああ~、あしたはどうしてもドフトエフスキーの「悪霊」にとりかからねばならない。

自らフランス文学を訳して、文章もお書きになって、

平家物語も読み物系、語り系、そして「源平盛衰記」「玉葉」など幅広く読んで、

「平家」の物語を大きい視野で、しかも細かい分析をしておられる。

うう~、碩学とはこういう人のことをいうのでしょうねぇ。

しかたない、あしたからはイチニチ、一章ずつちまちまと読んでいくことにします。

どうせ、一章といっても絶対に三回読まないと理解できないですから。

スロー・リーディングしかないな、とあきらめました☆


漂白する魂、王冠を被らせられた野生児   カイゼリン・エリーザベト    [ちょっとした考察]

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最近、オーストリア、ハプスブルグ皇妃、エリザベートに関する展示が多いですね。

わたくしも、なんやかんやとオーストリア関係の本、読むことが多いです。

皇妃様はエリザベートとふつう表記されますけど、本当はエリーザベトと発音するのが

正しいようです。

だから、表記は今回、エリーザベトで・・・ 笑

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ま、ここでは幼少からのニック・ネームであるシシィで統一しましょうかね。

シシィは今でこそ、「ヨーロッパ一の美貌の持ち主」とか「ハプスブルグの美神」とか

褒め称えられていますけど、生前はあんまり評判はよくなかったんですよ。

皇帝のフランツ・ヨーゼフはなんていうのかな、

イメージとしては明治天皇のような感じで国民に人気があったのですが、

シシィのほうは年がら年中、ヨーロッパのあちこちを放浪している

エキセントリックな皇妃として有名で、一名「機関車皇后」とも呼ばれていました。

いつも「ここではない、どこかへ」と口ずさんでいたそうです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

思うに、彼女は皇室とか王室とか女王とか

そういう儀式ばった、体面というか、人工的な形式というものに

一番縁が遠い人だったのだと思いますね。

シシィはこう、ウンディーネというかニンフというか

そういう何かの精のような人だったと思うのです。

生まれ育ったところが、湖のほとりのロマンティックな場所。

人によってはな~んてひとけのない寂しい場所だろうと思うでしょうね。

でも、シシィにとっては生まれ育ったその場所が一番落ち着いて、安心できた場所なのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

彼女のお父さんとお母さんは近親結婚でどっちもビッテルスバッハ家の人だったのです。

お母さんは本家の王女だったので、分家の公爵の家に嫁ぐのはイヤだったみたいです。

格下ですからね、公爵サマといっても。

他の姉妹たちはみな王家に嫁いでいますから。なんで自分だけがという不満があったみたいです。

お母さんは実は双子の妹でして、

片割れの姉のほうは・・・・実は未来の夫であるフランツ・ヨーゼフの母親なのですよ。

ね、びっくりびっくりでしょ~?

こんなに血が濃いんですよ。従兄弟同士の結婚といってもね。

脇道にそれましたが、

そんなわけで、お父さんもお母さんも美男美女でラブラブでもよさそうなのに、

はじめっから、めっちゃくちゃ夫婦仲は冷えてまして、

お父さんはお母さんと結婚する前に何人もの愛人をもっていて、しかも子供がいたので、

お昼は「自分のプライベートな家族」のほうを優先して、その人たちと一緒にすごす、ということでした。

・・・・お貴族サマの暮らしって、現代の庶民のわたくしたちには考えられないことが多いですね。

ただ、シシィにとってラッキーだったのは、

お父さんの公爵サマは、わりあいとリベラルな思想の持ち主で

もちろん、公爵という身分にしては、という前提なんだけど、

わりと彼女とお父さんとはウマがあっていたみたいで、

それが本来の彼女の長所を伸ばす一助にもなっていたみたいです。

シシィが公爵令嬢にあるまじき所業をしていても

別段目くじらを立てて怒るということはなかったらしい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、当のシシィですが、彼女は小さい頃は「全く美しくない」と両親にも

周りの人にも思われていたんです。

本当の美女になる子って意外と小さい頃は可愛くなかったりするもんなんですが

彼女もどうもそのケースみたいですね。

だいたいにしてすごくやせっぽちで、子供らしいふくよかさっていうのに欠けていたらしい。

当然、シシィも自分が将来「絶世の美女」になるなんて夢にも思っていなかったでしょう。

でもね、彼女にしてみれば自分の顔が美しかろうと、そうじゃなかろうと、別にどうでもいいことだったんです。

彼女は一日中、自分の顔を鏡に映して

「アタシってカワイイ?」って媚びを売ってるような女の子じゃなかったんですから。

彼女は、父親譲りのアタマの良さと鋭い感性、そして高い身体能力もち、

そしてこれは彼女が持って生まれた先天的なものだと思うのですが、

ナイーヴでフラジャイルな気性の持ち主だったのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

彼女は美しい自然を見て、詩を書いたりするのが好きな少女で、

そして馬に疾走させて、髪を風になびかせながらそのスピード感を楽しむような

ちょっと一風変わった女の子でした。

やっぱり、ギリシャ神話の中のディアナかなんかのような、そんな感じがしますね。

一種の野生児だったんです。

彼女はたぶん、真珠や宝石で作られた宝飾品よりも

太陽に照らされてきらきらと輝いている川の石のほうがキレイだと感動するような人なのです。

そんな人がどうして、王宮生活やマナーなどになじめることができるでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

彼女の悲劇は、姉のヘレナのお見合いの場所へ同乗してしまったことから始まります。

実は、母親同士、このお見合いは事前にお膳立てされていたのです。

ヘレナはもともと、フランツ・ヨーゼフへ嫁にやるつもりでたんと仕込まれた娘だったんですよね。

シシィは、さいしょっから問題外で、はっきりいって周りの大人からほうりっぱなしで育った子です。

両親からみれば、シシィなんぞは器量は悪いし、アタマもわるい、女の子のくせに日柄一日、

馬に乗りまわして、野山を駆け回っているはねっかえりだし・・・・。

でも、まぁあの子もたまにはかまってやって、世の中にはこういう華麗な世界もあるってことを

見せておいてもいいかもしれない、と思うのですね。

思えばそれが運のつきでした。

なんと、プリンスは宮廷にはゴロゴロいそうなヘレナタイプの女性は、食傷気味だったんでしょう。

そういうわけでシシィは新鮮だったんです。

人に媚びへつらったこともない、それでいて夢見るようなまなざしがとりわけ

フランツ・ヨーゼフの心を惹いたといわれています。

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そのときシシィわずか15歳ぐらいのことだといわれています。

物見遊山でキレイでしとやかな姉のあとについてきた、

イモ娘のほうが若い皇帝のハートを掴んだのですね。人生って皮肉なものです。

でも、シシィの兄弟姉妹ってお父さんとお母さんが美男美女なので、

どの人も遜色なくキレイなのですよ、実のところを言えば。

わたくしの目からみれば、二人とも実に容貌がよく似て、どちらもホンモノの美女です・・・。

いつもなら母親のいうことは絶対に従うフランツ・ヨーゼフはこの時ばかりは

自分の意思を押し通しました。

「絶対に、絶対に、シシィがいい」

「やめときなさい! あんなじゃじゃ馬の娘のどこがいいの!」

「いや、シシィは実に魅力的じゃないですか」

「フランツ、あの子はやめときなさい。皇妃という柄ではないですよ。

 将来、おまえが苦労します。それにシシィも皇妃になれば苦しみます」

とこのように散々諌めたのですが、効き目なし・・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうやって、シシィは自分の意思とは関係なく、

皇帝フランツ・ヨーゼフに強く望まれて皇妃になる道を歩んでしまうのです。

シシィとすれば、若い皇帝からぜひに、とプロポーズされれば、女ですから当然悪い気はしなかったでしょうが、

従兄弟である皇帝には好意は抱いていただろうけど、

それはたぶん「恋」とか「愛」とかいうものではなかったろうと思います。 

彼女はまだまだ子供だったのですね。

皇妃になるということがどんなに大変なことか。

しかし、立場上、皇帝からのプロポーズは断ることができません・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうやって、嫁入りしたのですが、人々がじろじろとシシィを見て

世慣れない彼女は疲労困憊してしまいます。

それに、結婚の本当の意味を全く知らなかった彼女は

夫婦生活を泣いて暴れて拒み続けたそうです。

そこらへんはモーパッサンの「女の一生」のジャンヌを彷彿とさせますね。

昔はたいてい、高貴な人の結婚というのは恋愛じゃない。でも、そういったものは焦らなくても

少しずつ夫その人にも慣れて夫婦間の情愛を育てて行けば、自然と成就するものなのです。

しかし、最悪なのはそういった夫婦間の実にプライベートな部分である絶対に人には見られたくない

場面をしっかりのぞいているおつきの人間がいるってことだったのです。

で、朝になると姑である皇太后ゾフィーの耳にちゃあんと昨晩のシシイの行状が知れていて

しっかりと「皇帝を満足してお慰めできなかった」といって叱責されちゃうのですね。

で、シシィの抵抗もむなしく、コトが成就できた朝、やっぱりそのことがショックで

彼女はベッドから起き上がることができない。

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皇帝はそんな彼女の繊細な心が理解できないので、さっさと自分だけ身支度をして、出て行ってしまう。

シシィは自分の身に起きたことがあんまりにも猛々しくて、恥ずかしくて、おつきの女官に

そっと「コーヒーを持ってきて頂戴」と嘆願する。

今日一日くらい、自分をそっとしておいてほしい・・・・・。当然ですよね。

しかし、宮中とはそういう身勝手は許されません。

ただちに朝の正装をなさって、朝餐のテーブルに着くように、と厳しいお達しが。

シシィにしてみれば、昨晩のことはみんなに知れ渡っているのです、そんなところに

みんなから興味津々の目つきでジロジロみられるのは、耐えがたいのです。

しかも、守ってくれるはずの夫はそばにはいない・・・・。

針のムシロ状態ですね、まさに。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

フランツ・ヨーゼフは決して悪い人間でもなく、

シシィを単なる一時の気まぐれで皇妃に選んだわけでもないのですが

小さいころから皇帝になる人間として躾けられ、帝王学を学んできた人間なのです。

これがアタリマエ、と思っている人には、

なかなかシシィの心情を理解することは難しかったのでしょうね。

宮廷のマナーはことのほか厳しく、二人が夜のベッド意外で親密にすることすら

許されなかったらしいのです。

宮殿のすぐそばに劇場があったのですが、そこへ夫婦連れだって歩くのも憚れるとのことで禁止。

フランツ・ヨーゼフは日中、執務室にこもって仕事をしていますから

そこへ皇妃といえども勝手に入ることは許されません。

ですから、少しでもいろんなことでお互いに理解しようと思っても、できない状態なのですね。

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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、それでも若い二人には子供が次々と生まれるのですが、

これがまた、生まれたとたんにシシィは実の子供を抱かせてもらうこともできず、

ぜ~んぶ姑ゾフィーに取り上げられちゃうのです。

・・・・・なんか、ほとんど子供を産むためだけの道具ですよね、これじゃ。

長男のルドルフを産んだ後、彼女は自分の勤めは果たした、と思うのです。

しかも、当時の男にはよくあることなのですが、

皇帝も若いせいか女遊びが激しかったらしい。

潔癖なシシィはそのことが絶対に赦せなかった。

「どうして、そんな汚らわしいことを複数の女を相手にすることができるのですか?」

「据え膳食わぬの男の恥」とか「男の甲斐性」とかいっても

シシィは泣きながら、怒ります。

「陛下、わたくしは陛下の何なのでしょう?

 陛下はルドルフの母方の血筋としての可能性だけを考えられてわたくしと一緒になられたのですか?」

と、シシィはだんだんと心を病んでいくのです。

しかも、オーストリア・ハプスブルグ帝国は代々カトリックですので、

離婚することは許されません。

夫からの愛はすでになくなった。しかも、子供を産んだ後、自分は子供を育てることはおろか、

自由に会うことすらかなわない。

こうなった以上、わたくしには人間として何の存在価値があるというのだろう。

無価値・・・・。

このくびきから解放されるには、自分の死しか逃れる術はない。

シシィは思いつめます。

で、20歳の頃、心身の衰弱が激しくなって、本当に死にそうになるのです。

シシィは誰からも顧みられることもない、ウィーンの宮廷の中で死ぬのだけはいやでした。

死ぬにしろ、意地悪な好奇の目にさらされて死ぬのだけはいやだ。

ここではなく、どこか遠く、ひと目につかないところでひっそりと人生の幕をとじたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ということで、彼女ははるか遠く、マデイラ島まで赴くのです。

そうとう心に受けた傷は深かったと見えます。

転地療養がウィーンでの重責を忘れさせてくれたのか、シシィはマデイラで健康になるのです。

マデイラ島は、イギリスの戦艦が必ず寄港するところでした。

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始めは気のせいかとおもっていたのですが、散歩をしている自分の姿をみるイギリスの兵隊の目が

なぜか熱く感じるのです。

それはウィーンで感じた嘲笑を含んだ眼差しとは、はっきりとちがっていました。

やがて、シシィはそのイギリス人たちの食い入るような視線の中に「賞賛」が入っていることを

はっきりと自覚するようになったのです。

イギリス人たちはまさか、こんな遠い島にウィーンの皇妃がいるなどとは知りません。

貴婦人には違いないだろうけど、もっと身分の軽い人だと思って

気楽に近づいて来ます。

「なんて美しいんだ、あなたは」

「こんなに美しい人はみたことがない」

「まるで何かの妖精のようだ」

としきりに賛辞を浴びせられ、ほとんど女神のように彼女の前に額づいている男たち。

シシィははっきりとこの時、悟ったのです。

美しさは力なのだと。

そして、自分はその美をもっているのだと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ウィーンへ帰ったシシィは昔の怯えておどおどした小娘ではありませんでした。

はっきりと自分の美しさを自覚した威厳ある皇妃です。

これまで、どこかシシィのことを軽く見ていたふしがなきにしもあらず、といった体の皇帝も

改めて神々しいまで美しくなった皇妃に、こんどは自分がひれ伏さなければならないことを

悟るのです。

こうやって、美しさの絶頂の自分にヴィンターハルターに描かせたのが、あの超有名なエーデルワイスを

象った髪飾りを付けた肖像画だといわれています。

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人と自分の関係     ~私とは何か  by 平野啓一郎~ [読書&映画]

最近、平野さんにどっぷりはまっております。

今日はこの本を紹介しますね!!!

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/09/14
  • メディア: 新書


もうこの人、わたくしより一回りもシタのお若い人なんですけど、

昨日読み終わった「一月(いちげつ)物語」なんて

もしかして、わたくしのためだけに(!)書かれたお話じゃなかろうか?

とドキっとするくらいツボでした。

一月物語 (新潮文庫)

一月物語 (新潮文庫)

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/08
  • メディア: 文庫


よく、作家さんのところに「あの小説は実は私が書いたのだ、盗作だ!」

みたいなアタマがおかしいとしか思えない手紙やメールが来るってハナシを

昔よく聞きましたけど、ちょっとそのアタマのヘンな人のキモチもわかるなって

この本を読んで思いました。

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平野さんは京大在学中に「日蝕」でデビュー。

日蝕 (新潮文庫)

日蝕 (新潮文庫)

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/01
  • メディア: 文庫


森鴎外か夏目漱石か、あるいは中島敦を思わせるような擬古文で、

学生とは思えないほど重厚な文章をお書きになって芥川賞受賞。

わたくし、そのとき単行本を買って読んでいたんですけど、

素材がキリスト教の異端審問とかホムンクルスとかアンドロギュヌスという

わたくしのだぁ~い好きなモチーフにあふれていたにもかかわらず、どういうわけか

心の琴線に触れずじまい↓

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

んで、どういうわけか、今年の春、ショパンとドラクロワを扱った「葬送」という作品を

偶然手に取って読んだら、めちゃくちゃ感動しちゃって・・・。

今日にいたっております。

葬送〈第1部(下)〉 (新潮文庫)

葬送〈第1部(下)〉 (新潮文庫)

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/07/29
  • メディア: 文庫


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

でも、平野さんはこういう端正なお話も書かれる一方で、文体もジャンルも、全く違った作品を

ポンポンとお書きになるんですね。

で、最近「かたちだけの愛」や「顔のない裸体たち」「決壊」「ドーン」と読み進めていくうちに

平野さんの小説のテーマというのは「人間関係」なのだなぁと思い至りました。

かたちだけの愛

かたちだけの愛

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2010/12/10
  • メディア: 単行本


顔のない裸体たち

顔のない裸体たち

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/03/29
  • メディア: 単行本


決壊〈上〉 (新潮文庫)

決壊〈上〉 (新潮文庫)

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/05/28
  • メディア: 文庫


ドーン (100周年書き下ろし)

ドーン (100周年書き下ろし)

  • 作者: 平野 啓一郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/07/10
  • メディア: 単行本



で、特に「ドーン」を読んでいると「分人主義」というのがでてくるんですよ。

英語で個人のことをindividualといいます。

dividual ディビデュアルというのは「分けられるもの」という意味で、それに否定の接頭語 in と付けると

「これ以上分けられないもの」つまり、ひとつの人間ですよね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、ちょっと話はそれるんですが、

例えば、わたしたちが付き合う人間関係って、それぞれ微妙に違いません?

たとえば、自分の両親に見せる顔と、友人に見せる顔、あるいは恋人や配偶者に見せる顔。

それぞれ違いますよね?

それは、それぞれ、親なら親向けの、友人向けの、あるいは恋人や配偶者向けの「自分」というペルソナを

演じているんだ、とか、本当の自分を偽っているんだ、とか今まで言われてきました。

ですが、それは間違ってんじゃないの?

別にどれも本当の自分であって、演じているわけじゃない。

相手が違うと、自分の対応もビミョウに変わっていくということだ、と平野さんは考えたわけなのです。

つまり、母親と自分だけの関係性はベタっと甘えた関係。

でも先輩後輩になると頼もしい先輩になって後輩を導くって感じ。

相手と出会うシチュエーションによって、自分自身の醸し出す雰囲気やイロは変わっていく。

たとえばうちの息子はプラモデルやミリタリーには詳しいけど、わたくしはそれほど興味がない。

だから、息子はあえてそういう分野をわたくしに話そうとはしない。

でも、大学に入って、クラスにたまたま出会ったクラスメイトがミリオタだったりしたら、

それこそ意気投合しちゃって、深い人間関係が築けるかもしれない。

それって自然なことでしょう?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ある人といれば、楽しいけれど、

逆にまた

たとえば、会社の上司とか先輩に異様にソリの合わない人がいるのは、

だれしも経験したことなんじゃないですか?

そんなとき、どうしてこうも、うまくいかないんだろう?って悩んだことはありません?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

平野さんはその英語の個人という意味、individual

のinをとって dividualism ディビデュアリズム つまり分人主義っていうのを

思いついたんだそうです。

人間、全人格をトータルで1とすると、付き合っている人ごとに分母の数がビミョウにかわっていく。

たとえば、カンタンにいっちゃうとある人がトータルで全世界で付き合っている人が10人いる。

10人いるわけだから10通りの付き合い方が存在するわけですね。

でも、だからといって、ひとりひとり、平等に

1/10という均等な濃さのお付き合いをしているわけじゃないのですよ。

例えば夢中になっている大好きな恋人がいたとして、逢えばあったで、その人といるのが楽しい、

離れていたらその人のことばっかりしか考えない、っていう状態だったら、分母は2ぐらい?

つまり二分の一になるわけです。

もしかしたら、あまりにお互いスキすぎて、自分とその人の境目さえわからない状態だったりしたら

分母は2から1の間の整数じゃおさまりきれないかもしれないですよね 汗

それはそれでスバラシイことでしょうけどね。

そうやって、自分が付き合っていて楽しい、充実している、前向きになれるっていう人との

関係の母数を高めていった方が、ラクですよ、ってことを平野さんは提唱しているのだと

わたくしは考えました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

人間関係というのは、インタラクティブなもので、

お互いがピンポンをするように会話などを充実していかなければ

発展しないものです。

でも、中には「黙って俺のことを聞け!」っていう乱暴な人もいて

インタラクティブなカンケイには絶対になり得ない人もいるでしょう?

つまり、絶対に分かり合えない人もいるんです。

わたくしはそういう人間関係に悩んで疲れ果てていたことがあるんです。

その人といると、なんか自分が意地悪になって、イライラして、会話が続かない。

好意をもって接しようとしても、なぜか悪意にとられてしまう・・・。

「わたし、どっか人格的にヘンなのかな?」って負のスパイラルに陥ってしまう。

こういう関係を平野さんは、「人間関係とは半分は自分のせいでもあるけど、

あと半分は相手のせいでもある。自分だけしかいない人間関係などない」

とおっしゃって、そういうのは必要以上に自分を責めないことが必要だ、とされてます。

ですから、充実した人間関係であれば分母の数は少ないほどいいわけですが、

イヤでしょうがない人間関係はかぎりなく分母の数が多い方がいいんじゃないの?

みたいな考えですね。

1/100 とか 1/1000 とか。

極端なことをいうと、ビジネスライクの関係のおつきあいだったら、

そんなに自分の深い心のうちなんかを見せたりしないでしょ?

イヤな人とは深い関係を必要以上に築こうとしない。

もちろん、仕事仲間だったら、仕事に関する限り、細かい打ち合わせは大事でしょうが、

何もキライなのに会社帰りに一緒にごはんを食べたりすることない、ってことです。

(とはいっても、いろいろとしがらみが多いのが実情とは思いますが・・・・)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ま、あといろいろと「じゃ、人間ひとりきりだと、人間関係というのはどうなるの?」みたいな

ツッコミもありますが、それにもじっくり考察されていますので、

興味のある人は読んでみてね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひところ、「自分探しの旅」っていうのが流行って

「どこへ行かなくても、自分というのはここにいるだろ?」と冷やかされていましたが、

そうではなく、「自分探しの旅」というのは自分をよりよい人間関係へと導いてくれる人を

探す旅だ、なんて言われるとなるほどな、と深く納得したり。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いろんな人と付き合っていると、

中にはすごく人格的にも尊敬できて、自分がいつもよりもすごく素直になって、

心が洗われたみたいに清々しい人に出会うことも、まれにあります。

これは自分の実感ですが、そういう人と付き合っていると、自分のポテンシャルな才能が

結構す~っと発揮されたりして、頭が妙にクリアになっていたりするんですよね。

反対に言えば、いかにイライラした気分が脳に悪いかってことですよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

生きている以上、イヤな人との出会いも必然で、続けなければならないことも多いですが、

こういう考え方をするとちょっと生きるのがラクなような気がします。


たまにはシブく古楽など・・・     [芸術]

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今日はすんごく久しぶりに京都コンサートホールへ行ってまいりましたのことよ。

京都コンサートホールは今からおよそ20年ほど前に

京都の北山に建てられた、クラシック音楽専用のコンサートホールです。

まだ、バブルの恩恵に浴していた頃に建てられていますので、

ゴージャスです。大理石ふんだんに使われています。

建てられた当時は、そのあまりにモダンな雰囲気が冷たい感じがして

そんなにイイとは思わなかったんですが、

トシとってくるとようやくこういうモダンな建築物の良さみたいなのが

分かってくるようになったみたいです。

ハコそのものはいいんですが、最近は京都市の予算があんまりないらしくて

いい演目が来ないんですよぉ~。

以前はキーシンとかアルゲリッチとかフランスのフィルハーモニーとかばんばん来てたのにな。

ちょっとさびしい・・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

とはいえ、そんなに知名度が高くなくても、いい音楽っていうのはあんがいひっそりと行われ、

案外根強いファンっていうものがいるもんなんですよね。

今日はその一端ですね。

題しまして「バロック宮廷の華/ダンスと音楽の饗宴」っていうのを見に行ったっていうか

聴きに行ったっていうか。

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というのは、音楽もあったけど、+バロック・ダンスっていうのも、やっていたのです。

今はそんなに古楽って流行っていないのかもしれないですけど、

一時期、今から20年ほどまえか・・・古楽が流行っていたときがあるんです。

で、そのときに結構そういうバロックがらみの音楽やら映画やら、よく作られていまして

思い出すだけでもちらほらと。

まず、「めぐり逢う朝」

めぐり逢う朝 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • メディア: DVD



「王は踊る」

映画《王は踊る》サウンドトラック

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  • アーティスト: フロリアン・ハイリク,ラインハルト・ゲーベル,ムジカ・アンティクワ・ケルン,フロリアン・ドイター
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2001/06/21
  • メディア: CD


王は踊る [DVD]

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  • 出版社/メーカー: アミューズ・ビデオ
  • メディア: DVD



「宮廷料理人ヴァテール」などなど。

宮廷料理人ヴァテール [DVD]

宮廷料理人ヴァテール [DVD]

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まだまだあったような気がするけど、ま、それはおいといて。

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まずですね、バロック・ダンスっていうのは、まぁ、ルイ14世の頃に確立しまして

今のバレエのもとですね。

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まぁ、バレエほど激しいアクロバティックな動きはないのです。

踊っているのはあくまでも宮廷人であって、プロのダンサーではないのですから。

といっても、かなり難しく、踊るにはかなりの訓練が必要だったでしょう。

そういえば、「チューダーズ」のドラマの中では、

タムジン・マーチャント扮するキャサリン・ハワードが侍女を従えて

ダンスの練習をしまくるシーンがありましたが、あれこそまさにバロックダンス。

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音楽のほうは、先ほどいいました「めぐりあう朝」の中に使われていた

マラン・マレの「スペインのフォリア」が美しかったです。

ヴィオラ・デ・ガンバは今のチェロよりかなり小型のもしかしたら、

今のヴィオラのほうが近いのかもしれませんが

実に深くて格調のある低音がでる楽器なのですね。

いままで、さんざCDとか映画とかのメディアでは聞いたことがありましたが、

生のヴィオラ・デ・ガンバの演奏は初めて。すごく美しくて感動しました。

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あと、青柳いづみこさんのピアノで知っていた、

ジャン・フィリップ・ラモーの作品。

「ロンドによるミュゼット、タンブーラン」

青柳さんはピアニストなので、この曲をピアノで演奏していましたが、

今回はクラブサン(ハープシコード)でしたので、おんなじ曲を演奏していたとしても

それはそれでまたかなり違った印象でした。

クラブサンの音色ってどことなく、緻密に編まれたレースのような感触があります。

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ダンサーはバロックダンスの研究家でまたダンサーでもある方が踊っておられました。

よく当時のスタイルを研究して復元してあると思いますが、

いかんせん、そうとうお年だったような気が・・・。

自ら踊りたい!という気持ちわかりますが、

最近は八頭身のダンサーはいくらでもいますので、

クラシック・バレエをやっている子だったら、踊れると思います。

んんん~、こういうとまた毒舌になっちゃうんだけど、

こういう世界はまた独特の、いってみればオタクの香りがするんですよ。

ともすると、偏った方向へ行きがちです。

「わかる人だけにわかってもらえばいい」

というまさしく独立不羈の精神があるんでしょうけど、

そうやっていると、ますます一般ピープルの目から離れて、触れることはなく、

大勢の目にさらされることによって、芸そのものが磨かれる機会が減るわけです。

ちょっとそこが残念だったかな~f(^^;

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途中で古楽奏者の方のお話もあり、

ヴァイオリンというのは16世紀ぐらいに入って

やっと正式な楽器だと宮廷から認められたのだそうです。

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というのは、演奏するとき、楽器をアゴに挟む恰好が「屈辱的」であり

かつ、演奏するスタイルがアシメトリーであって、シンメトリーではなく

この時代、「秩序」とか「調和」を重んじていたので、そういった不安定な演奏スタイルは

好まれなかったそうです。

おっしゃるところによると、正式にヴァイオリンが認められるまでは

異教の「ユダヤ人の楽器」だとして、辻でヴァイオリンなどを弾いていたりすると

刺殺されても文句いえなかったそうです・・・。

へぇ~。西洋音楽っていったら、まずヴァイオリン

と今日の我々は思いがちですが

意外とそういう秘められた歴史があるんですね。

とても勉強になりましたワ。


ケガの巧妙 [ワタシのキモチ]

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わたくしの夫サマは記念日を大切にする人です。

わたくしがとってもボケで忘れ去っていても「アシタは〇〇の日だよ」

とキチンと覚えています。

わたくし、さる24日が自分がケッコンした日だということを

すっかり忘れ去っておりました。

どうも、何かの拍子に自分が注目されるエポックメーキングなことがあると、

突然、いうべきセリフも覚えていない役者がスポットライトの当たった表舞台に立たされたみたいで

あまりに居心地が悪くて、無理しても忘れようとしているクセがあるのね。

で、忘れていたんだけど、

たまたまその日が記念日にピッタリな花だったわ、

ってことで少し得した気分に。

最近はたいてい二人で夜ご飯を食べることが多いんだけど、

この日もそうでした。

で、「そうだ!こういう日こそ!!」と、100グラム1500円の和牛のフィレのステーキを食べよう!

と思い立ちまして・・・。

材料がちょっとばかり高くても、家で作って食べればどこかへ行って食べるより安いに決まってるし!

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だいたいステーキなんて、焼くだけだし、楽です。

とはいえ、いつもステーキはワンパターンになりがちなので

ちょっと頭使って、バルサミコソースにしましたん~。

お肉やわらかくておいし~。

ミディアム・レアにしました~。

雑な付け合せは笑ってください、性格です。

こういう場合、炭水化物をとらないでおくと、

お肉を消化するのに、摂取したカロリーの3分の2ぐらいは消費されるということなので、

たいてい翌日は体重減っているのですね!知ってた?

でも、一緒にパンとか食べたり、そのあとケーキ食べたら、絶対太るけど・・・。

ローソクつけたらどうなるか?というご質問があったので、写真をUPしてみます。

自分の写真も撮ってみたけど、めっちゃ写真って残酷ですね・・・。

自分が普段見ている鏡の中の自分ってなんなんでしょうとかってマジ思います。

客観的にみて、ヤキの入った根性悪そうなオバハン意外のなにものでもありません。orz!

・・・・やぁねぇ。

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crazy horse paris [読書&映画]

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見に行ってまいりました。「クレイジー・ホース」

イヤ、感動しました。女性の裸体ってこんなにキレイなものだったんですねっ!

って世の中には「絵のように美しい」っていう表現がありますが、

これを見て、絵画は本物の美しい裸体を上回ることができないかもしれない・・・とマジ思いましたね。

それほどまでに、自然の造形物は美しいんです。

すべて、とはいいませんが。

クレイジー・ホース・パリはパリはモンマルトルにある今でもバリバリ現役のキャバレーです。

ここはヌード・ショーで超有名なのですが・・・

あの、ベガスのとは一味違いますね。

日本のストリップ小屋なんかとは全然レヴェルとか次元も違います。

ここで行われるショーは、もちろん女性の裸体がメインなのですが、

それはエンターテェインメントという部分ももちろんありますが、

やっぱり「芸術」といっていいでしょうね。

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同じショーでもベガスのヌード・ショーも有名みたいです。

が、以前「ショーガール」っていうのを見たんですが、

その映画は実に下品でした。ショービジネスはいかに厳しいかっていうのは解ったけど。

本当のベガスのショーはどんなものかはわからないけど、

なんか扇情的なショーだったです。

ショーガール [DVD]

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女性はこういうショーは見に行けないかも・・・・と思いました。

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キャバレー・クレイジー・ホースの特徴とは!

まずね、ダンサーの質の高さです。

ギリシャの神サマはなぜ裸かというと

その裸体が完全無欠で隠すことがないからなのだそうです。

そういう意味でここで踊っているダンサーの肢体は本当に輝くばかりに美しい。

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こんなのみちゃうと、今はやりの巨乳とか、な~んて下品!って思いますよ。

み~んなすらりと長身、細身で、しかも足は長く、手も長く、首もほっそりと長い。

そして、腰はきゅっとくびれて、おなかなんてま~ったく贅肉なんてついていません。

かといって、ギスギスじゃない。本当に完璧。

美しい胸というのは、こういうのことをいうのね、って女ながらに感動して見ていました。

オーディションのシーンもありまして、それが結構面白かった。

ここの劇場のダンサーは16人ということです。

わたくしが思うに、ここで踊れるのは25ぐらいまでなんじゃないかなぁ。

それ以降はちょっとキビシイかも・・・。

意外とロシア人が多いのだそうです。

たぶん、ボリショイのバレエ学校を出てきた子たちなんじゃないかと思うんですよね。

めちゃくちゃ踊りが上手かった。

最後、シルクドソレイユそっくりなパフォーマンスしている人もいたし、

超高度な演技だと思います。

わたくし、最近思うに、身体能力の高い人じゃないと、まず完璧なプロポーションになりえないんじゃないか

って思うんですよ。だいたい、あのヒール。歩くだけでも大変です。

美しい身のこなしは、絶対に運動神経が必要だと思います。

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オーディションの途中緊張して失神して救急車で病院へ運ばれた女の子や

ニューハーフの方もいました。

でも、通らない。難関なんですね。

男性のスタッフが支配人に

「あの子は?いい線言っていると思うよ。イタリアからここに入りたくてチャレンジしたんだ」

「いやよ、ああいうスタイルの子はここの好みじゃないの」

む~~ん、キビシイ。

上品な肢体が好まれるようです。そこらへんのボディラインのチェックはすごかったです。

ですから、ここのダンサーがどんな大胆なポーズで踊っていたとしても、

そこには淫らなエロティシズムっていうのはみじんも感じさせないです。

もっとも「官能美」はありますよ。だけど、それはなんというかまるで夢のように美しい。

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で、な~んとなくフワ~とした雰囲気でシャンパンを飲みながら夢のような舞台を

愉しむことになるのですが、

その裏側というのが、またスゴイ。

こういったひとつのショーが一つ成り立つためにはこんなにも

裏方さんの努力があるのだなぁと感心しました。

演出を手掛けるフリップ・ドゥクレ。

この人すごいですね。自身がダンサーであり、振付家であって、

実際この人が踊っているシーンも収録されていますが、

男なのに、女らしい。やっぱり振付ひとつで感情表現ができるもんなんだぁ~って

改めて感じました。

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芸術監督のアリ・マフダビ。

ショーの芸術監督ですね。ここのショーのライトの当て方ひとつにしても

考えて考えて考え抜いた結果なのです。本当に美しい、そして芸術的。

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ダンサーたちの衣装を手掛けるフィフィ・シャシュニル。

この方は女性なのですが、いかにもパリジェンヌらしいサバサバしたきっぷのいいしゃべり方をされます。

でも、言い方によればともすると傲岸不遜に聞こえる彼女のコトバも、なぜか

愛らしく、心に届きます。

「このショーで踊るコたちは男性のお客さんの前で、大開脚するのよ。

そんなコたちに、こんな粗末な衣装なんてかわいそうすぎるわ。

わたしは誇りをもって、これが私のした仕事よ、っていえる仕事がしたいの。

やっつけ仕事なんてゴメンだわ。わたしの言い分がとおらないのなら下ろさせてもらうわ」

とかいいつつ、衣装変更があって戸惑っているダンサーに実に熱心に

なぜ変更があったかを心を込めて説得している姿には感動しました。

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そして、実質的な劇場の管理者である総支配人、アンドレ・ダイセンバーグ。

そして音楽を手掛けるフレッド・パレム。

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わたくし、身体芸術が大好きなんですよね。

パリに行ったら、ナイトライフはオペラ座に行って「バヤデール」とか「海賊」みたいなと

思っていましたが、こっちへいくのも面白そう!

なお、おひとり様、85ユーロで楽しめるそうですよ。・・・行ってみたいな。

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